統計の前提としての統計力学
統計のwikipediaのページはこうなっている。 統計力学の横展として捉えられる統計とこのwiki的な理解でとらえる統計では表情が違う。この表情の違いを明示する文章があると、統計力学をしっかり修めなくても
さらに、パソコンの普及、分析手法の発達によって大学や企業なども統計を利用するようになり、「国のためのデータ」から「国民のためのデータ」へとその性質は変わってきている。
という実感が得られるかもしれないという試み。
この発想はかなり良い気がしてきた。統計を現代の帝王学の中心として位置づけることで、執拗な王道への執着へのドットになれるかもしれない。
要するに、陰謀論への傾倒は「統計」に基礎づけられた政策がデータである自分の行動を左右する場面になると、現代人のリベラルさは命令にもかかわらず、含まれる確実性のなさはより高位の別のデータ(個人)のための犠牲に見える。ワクチンのよさは統計的にのみ裏付けられるがその外れ値は生活にとって受け入れられるものではなく、政策に従うモチベーションは生活から生み出されない。この克服は単純にデータとしての自分を離れてデータを処理する経験によって行うのが最も現実的である。ギャンブルはそのひとつの経験であり、やるべきだが、個人の話を処理することに人生をかけ、それを動かすためのストーリーを社会の中心に置くことも同様の観察で否定したい。特に検定周りの問題を生活の中で捉える場面はほとんどなく、みんな仕事したほうがいい理由はここにあるかもしれない。