社会的評価の素描
学校教育、まあ言語教育なので言葉の話が一番大事だとは思うけどそれと同じくらい「検算と推敲」という姿勢は大事だと思うラジね。「検算と推敲」は大学入試で十分に見れると思っていてそれゆえ大学入試はあったほうがいいと思うラジ
こういうことを考える上で現実に起こっていることを描写し、それが社会的にあるいは行為者本人にとってどういう価値をもつのかについて考える。
試験でも作品でもなんでも社会に何かを「自分の代わりに」提出して、承認・評価をもらうというプロセスに関して起こっていることにはそこに残されたシニフィアンなりが、自分の思考がそれなりの形で表象されているという前提がある。論点は、「自分の代わりとなるものは自分の思考の流れなのかどうか」と「表象されて残ったものは過不足なく自分の思考を表現しているものか、そうでなく部分的にそうなだけならどこまでそのような『自信』が持てればいいのか」ということ。
試験と作品について現実に起こっていることを描写する。
試験
そもそも社会システムの中で「制度的事実」にもとづく行為なので、社会か動物かという話にはならない。それを読みたいなら作品のほうへ。
試験では科学的な姿勢と言語的な姿勢が問われる。これは別になくてはいけないものではないが、社会がそうなっているので学校もそれを必要ということにしてる。科学的な姿勢は、端的に言って自己の思考からの距離の取り方である。猜疑といっていいかもしれないが、シニフィアンとして答案用紙に書き残した記号たちは論理的な自分の思考の時間的な流れを二次元に射影したものである。それらについて本当に「論理的な」自分の思考なのか、というのは作品の時には問題にならないが「科学的」ないし「論理的」であることが社会から各個人に求められているという前提から、書き手である自分であっても客観的に真偽を判断する必要がある。判断しなくてもその答案を出すことはできるし、作品的なとらえ方をすれば論理的かを客観的に判断しないほうが『自己』の表現としての価値は勝りそうだがそうはしない。社会的な要請が試験という一連の行為の前提だからである。そしてこの確認の行為は「検算と推敲」にほかならない。なんらかの問いがあり答えたが、それはなにか自分の価値観だとか信念を反映させた記号群であることは求められていない。この場面で求められている行為は学校教育を受ける各個人の目標であるところの「問いに対して科学的・論理的に答える」ことであり、この目標を達成しているかについての承認・評価をもらうため、受験者は書き残された自分の思考を、自分から引きはがして科学的・論理的なライティング(Lighting)で注意深く観察する。前提までわかっていてやっていなくても「検算と推敲」とは言えるが、前提までわかっているべきだろう。学校教育に体育や美術がある意味はそういう相対性を同じ時空間でもつためだ。
作品
試験の場合から一転、作品の提出は世の中から求められる作者の属性というのはない。そもそも、ほとんどの場合作品は提出に至るまでは作者(創作者)のコントロール化にあるわけなので、求められていない提出というものについて動機と作者の作品に関する考えが必要である。しかしここではそのような内面的な考察は一旦置き、表面的に見えるものについて観察する。
作品がなにがしかの動機によって作者によって提出される。現代において作品を提出することは作者についての情報にも、さらにその作品が作者によってどのような芸術的・社会的文脈で制作されたかの情報にもアクセス可能である。これは鑑賞者が要求するという面と、作者がその作品についての理解の方向性をある範囲に収めようという意図を持っているという事実からの要請だと考えられる。作品についての理解をある一方向にそろえるようなやり方は、作品が社会的に理解されるというプロセスを経て、作者である自分についてもなんらかの社会的理解が勝手に形成されるというのが確度高く予想できる工程で、その工程の中で自己利益が損なわれることを避けるための手段であると考えることができる。作品は社会の中で存在を認められると作者の中の何かを表象しているものとして一定の影響力を持つ。作者が作品を創作する行為は、社会に提出することを念頭においてもおかなくても、作者の創作には当たらない行為と区別ができない。しかし社会に提出する際には作品に関わった行為のすべてが創作の行為として後付け的に同定され、それらの行為の集合体はほかならぬ作者が動作主だったという事実から、ほかの社会の成員によって作者についての属性を表象するものとしてみなされるのである。
一方、ある物理的存在を作品として受け取る社会の成員=鑑賞者は社会的な存在として作品を受け取るときは上記のような作者の手続きを前提として作品に向き合う。つまり、作品が作者のなんらかの表象であると作者自身は理解しており、作者は作品をそれが受ける社会的な批評や評価によって作者の倫理的な自己利益が損なわれないような形で提出している自信があるという前提を採用して作品に臨む。このような状況で、「それは作品として満足するべき条件を満足しているか」「作品は作者のどのような面を表象しているか」「作品はどのような社会的評価を受けるべきか」「その作品の作者であるという事実から作者はどのような社会的評価を受けるべきか」について鑑賞者は自由に判断することができる。この判断が社会的な効力を持つかどうかはその判断の動作主の権威や判断の基準となる思想の権威によって、そして何よりその判断が何らかの倫理的判断としての妥当性が十分であるかどうかによって変化する。