目を見て話すような語り方
陽キャ陰キャというのが人口に膾炙しすぎてしまったが、実は誤用が広まってしまっているだけで、ほんとに指していたものは「なんでも目をみて話してきそうな人間」とその否定の対比だったはずなのではという仮定。
例えば自分がボスに自分の研究の進むべき方向をこう考えていると報告するとき、とくに目を見て話さないとみたいな意識はないし、ボスにそういう指導を受けることもない(精度よく思い返せないが、思い返せば天井とか壁を見ながら話している気がする)。ボスから見て論理的に了解できればよく(「論理的に了解できる」範囲を表す関数は受け取る人間の論理的能力を変数にとる)、それがどういう形でプレゼンされても構わないのは「論理的」な帰結で、ただこの場面で「この方向に自分の研究は進むべきだ」と「訴える」場面では目を見て話したほうがいい感じがするというのが自分の予測である。
目を見て話すことと目を見ず話すことはそもそも行為として相当異なるものなのではないかというのが、主張だ。
基本的なエッセイの形式では、この主張に対して考えられる反論を持ってきて何か反駁するものだが、ここではそれをせずにこの主張をもとに現状の分析を行う。
SNSでの言論というのがそもそも「目を見て話す」ようなものでしかないのではないかというのが言いたかったことだが、そのためには言論自身そのような類のものか否かの検討が必要だ。言論というのは「概念にコミットして、個人を離れてその文章自体が主張する何か」を指していると一般には信じてられているがそうなのかどうか。個人を離れれば「目を見る」行為は伴わないはずだが、説得が言論がコミットするべき目標ならそうはならないのは容易に演繹できる。なので問題は「文章が読み手の「目を見る」ことが比喩ではなく、その文章の意味通りに起こり得るかどうか」ではないだろうか。
もう一つ話題にしたいのがリモートワークで、私たちがどうもリモートでは「効率」が落ちて対面のほうがいいという主張(これを個性を変数にとる関数なので各人に合わせるべきだという解決は非常に現代的でそういう意味でアップデートされているんで好意的にはとらえているが、なんでも個性なのでそれぞれに合わせて方策が取れるような仕組みにしようという流れは「それは仕組みではない」の一点張りで拒否するつもりです(無為の共同体の「個人主義とは、問われているのは一つの世界なのだということを忘れた辻褄の合わない原子論である。」という言葉がクッソ刺さってる気がする。))は、話題にしている「目を見る」必要が、「仕事」ですらまだあるというのは問題なのではないかという話である。RiddleのKaronPeが辞めることに関してボドしゃんが話しているときにも「選手たちのモチベーションが一番大事」という類の発言があったが、仕事上のモチベーションに「目を見る」ことがコミットしているとの直観がまずい気がする。ぼくらの次のステップは「モチベがなくても働ける」という場面だと私個人は照準を定めているが、これは偽か。