生活の時間感覚
繰り返しいっていることを繰り返す。
我々の思索は生活単位の時間で一度切れる。湯船での思考はその後出て体を拭き、部屋に戻ることを強要されるがためにある時間単位で途切れる。皿洗いをしながら考えたことも洗濯を干しながら考えたことも、仕事の休憩に散歩に出かけて考えたことも生活の時間軸の中で途切れることが前提である。
したがって非日常体験を創出するために時間感覚にフォーカスすることは基本的な手法である。スクリーンの前に2時間腰掛けることも、小さな建物にすし詰めになって何かを鑑賞することも、食事の席に3時間も際限なくしゃべり続けることも全て、時間感覚のずれが非日常の認知に大きく寄与している。
余暇の時間を非日常で埋めつくそうというのが現代および消費の基本姿勢であるが真摯な姿勢とは言えない(我々はなぜ真摯であるべきか)。非日常は生活以外の存在である在り方自体が怠惰と決別している。我々は常に内省を忘れるべきではなく、怠惰と向き合い続けることは避けられない。そのためには余暇も生活によって基礎づけられた捉え方が真摯だし、非日常の提供者側がそれに自覚的であるべきである。 以上の議論から、生活にもとづいた余暇が生活の時間感覚を引き継いだ在り方であるべきと主張できる。余暇の思索や活動は、常に生活によって顧みられながら取り組まれるべきだ。
現代という前提から話題として漏れているのが仕事の時間である。当然のように労働の時間が減ったから余暇が多く存在していることを前提として受け入れているが、この仕事の時間感覚はそれが社会的活動に属するという認識によって生活のそれとは異なる。仕事のように余暇を過ごすというのは、年少から実は取り組んでおり、その強制力が外れる大学生という時代がどれほど我々を内省へと導くかを考えると、この時間感覚をどう定位するかも問題になる。