我々を『観光』に駆り立てるもの
全く行ったことのない、何も知らない外国で3食のことを考えたり、明日の下着を買う体験は完全な非日常に分類される。そのカフェがベルギー全土に展開し、街を歩けばどこでも目に入るような店舗だったとしても、非日常の域をでない。その体験を何度繰り返せば日常へと仕分け先が置き換わるのか定量的な分析は意味がないが、この体験が観光と呼ばれる営みの中心に位置付けられているのは間違いないだろう。その土地の歴史や習俗と同じくらいの固有さがその土地の生活にはある。非日常に分類されうる体験を日常を挟まずに摂取し続けることが観光というものの特徴である。
一方、日常を過ごしている国や地域を同じくするものの歴史や習俗が異なる土地へも観光という営みは成り立つ。そこでは衣食住についてはあまり差分を感じられないことが多い。その街並みの中には日常に含まれているものとそうでないもののが混在している。このような条件下ではその風景から非日常を見つけ出し、体験していくことが求められる。兵庫でもマクドナルドもセブンイレブンも同じような体験を提供しており、日常に分類されうる体験が混入してしまうと観光という営みの価値が減じられてしまうような感覚になる。牡蠣やジビエなど、土着で観光者の日常には入り込まないような食事や習俗がより大きな体験価値を持つ。移動や宿泊などの経済的な消費行動を伴うために、その消費価値を裏付けるような非日常的な体験をするように駆り立てられる。
しかし、どの土地にも人が住んでおり、同じ意味で日常が存在している。観光者として非日常を選び取るような姿勢は自らの日常を前提としてしかその土地を眺められていない。差分にしか価値がないように資本は語るが、我々の体験は等しく体験であり、それぞれに差分を与えるのは後付けである。