丁寧な文章1
例えば確定申告とか入社同意書へのサインとか、ある種の手続きのために求められる「事実の文書化」を担うUIにマニュアルがあることは完全に悪だということができるが、この言明に関して正しい描写を与え、派生する話題に言及するのがこの文章である。
1. 「完全に悪だ」という言い切り
その悪性を導くために行った論理的操作に誤謬がないとかそのたぐいの「自信」にもとづいて言い切っているのではない。単純に言明が真であるから真であることを意味する文で言い切っている。確信である。
なぜか。事実をそのまま文書化していくことに何か動作主側が手を加える必要はなく、完全に手続きである。しかし、文の本質的な性質から表記ゆれは避けられず、事務的にはなんらかのフォーマットによって整理されているほうが都合がよい。そのため、フォーマットのフレームを切ってそこに書き込む形が事務側の都合を反映した自然な選択肢となるが、そのフォーマットというUI自体が動作命令になっているはずである。文書化してほしいものは事務側が知りたい過去の固定された事実のみであり、その文書化に際する行為のすべてはフォーマットにのみ影響を受ける。フォーマットが下す命令に従うだけのUXを導くためにマニュアルが必要なわけがない。別に新しいことを主張しているわけではなく、Apple製品(とその影響下にあるもの)に説明書がないことを指摘しているだけに過ぎないと言えばそうだが。
2. UIの存在自体が起点となるコミュニケーションについて
命令のなかにコミュニケーションの要素をどれだけ見出すことができるかは自明ではないが、UIがコミュニケーションを引き起こすのは定義通りである。動作主が他者からの影響で何かの動作を起こすのは常にコミュニケーションによってのみであり、我々はこのコミュニケーションを自由に設計=デザインできるために他者の行動を動作主の選択肢として提供できるということを前提にしている。選択肢に挙がったことを外部から評価する術はないので実際のところその行為が起こったかどうか、行為による物理的な結果を計量することでそのデザインが効果的であったか(正しいかどうかなんて誰にとってもどうでもいい)を判断する(客観的である必要がある営みとそうではない営みがある)ことになる。しかし、動作を起こすまでに動作主に影響を与えるのはそのUI起点のコミュニケーションのみではなく、自身の身体的・精神的特徴や取り巻く環境、生活のなかで抱えるリスクなど現実的なファクターが無数に存在する。したがって、外部から測定可能な評価はUIによって起こされたコミュニケーションの純粋な産物ではない。動作主による動作の選び取りというファクターが挟まっていて、ペルソナという怪しい概念はその選び取りがある程度画一的で予測可能なものとなることを保証したい顔をしているが、ペルソナが正しく設定されているかどうかも同時に計量で判断するしかなく、すべてを結果に依存する主張はほとんど判断者のクリエイティブが生み出したもの以上の評価をすることはできない。何一つ論理的ではなく、客観的でもないので、ギャンブルをしてますと言われたほうが納得できるし、そのギャンブル自体はなかなか楽しそうではある。
3. 事実の表現形式について
生活のほとんどの場面で事実を正確に証言しなければならないというプレッシャーはないので、自分の編んだ言葉と事実との距離を正確に測ろうというモチベーションは生活から湧いてこない。写真が何となく人気なのはそういうことで、古来からそれだけは真であったところの事実を確信をもって他者に届けられることは、基本的に何の反論を挟むすきがない安全性の高い発信になる。この写真は何も面白くないといわれても、ただのどこかのある瞬間ですという説明は常に真で、そういうことではないと言われてもそういうことではないと返せば、何か意味のある会話とは思えなくても疵は負わない。同じような開き直りを報道を生業とする人間もすることができ、別に疵を負いながら何かをしないといけないこともないので安全であること自体を責めるすべはないが、そういう仕組みである。帯域に余裕が出てきたインターネットで事実伝達の第一手段が画像になるのは上記の描写によってたちどころに理解されるだろう。言葉による事実伝達が理解されるか、正しく伝わるかを保証してくれる人はどこにもいないのでそういう手段を採用するモチベーションはインターネットには全く欠けていて、その整備は二の次三の次である。コミュニケーション自体は存在していて、それがリアルかどうかは議論の余地があるが、インターネットと事実のつながりは所与のものではなく、伝達安全性に起因する代替手段である。