デカルト『情念論』の驚きに関する考察
75 「驚き」は特に何に役立つか
とくに「驚き」については、その有用性は、それが我々をして、以前に知らなかった事柄を、学ばせ、記憶にとどめさせる、ということにある。というのは、われわれが驚くものは、われわれにとってまれで異常に見えるものであり、ものがまれで異常に見えるのは、われわれがそれを知らなかったゆえであり、さらにまた、それがわれわれのすでに知っているものとは相違するがゆえであるからである。そして実際この相違こそ、そのものが異常とよばれる理由なのである。ところで、われわれの知らないあるものが、新たにわれわれの悟性または感覚に現れても、もしそれについてわれわれのもつ観念が、脳の中でなんらかの情念によって強められないならば、その観念をわれわれが記憶のうちに保持することはやはりないであろう。そして驚き以外の諸情念は、ものが善く見えまたは悪く見えることを注意させるに役だちうるが、たんにまれだとのみ見えるものに対しては、われわれは「驚き」の情念をもつだけなのである。それゆえに、この情念への生まれつきの傾向をもたない人々は、通常きわめて無知であることが認められるのである。
76 どういう点で「驚き」は害があるか、またどのようにして「驚き」の不足を補い、その過度を正すことができるか
しかしながら、われわれが驚きたりない場合よりもむしろ、考慮する値打ちのほとんどまたはまったくないようなものを知覚して驚きすぎる、すなわち驚愕する場合のほうが、はるかにしばしば起こるのである。しかもこのことは、理性の使用をまったく失わせたり、誤らせたりしうるのである。
そういうわけで、驚きへの傾向を生まれつきもっていることは、知識の獲得を促すゆえに、善いことであるとはいえ、われわれは年とともに驚きの生来の傾向を、できるかぎる脱しようと努めなければならない。というのは、眼前に現れたものが注目に値するとわれわれが判断するとき、われわれの意志は悟性を強制して特別な反省と注意とに向かわせることがいつでもできるのであり、そういう特別な反省と注意とによって、驚きへの傾向の不足を補うことは容易であるからである。しかし、過度の驚きをとどめる手段としては、多くの事物の認識を獲得し、最もまれで最も異常だと見られるようなすべてのものを、よくよく見る練習をするよりほかはない。
77 最も驚きやすい者は、最も愚かな者でも最も賢い者でもない
なおまた、生まれつき驚きに向かう性質をまったくもたぬ者は、鈍く愚かな者よりほかにないが、だからといって、最も知力に富んだ者が、必ずしも最も驚きやすい者だとはいえない。最も驚きやすい者は、主として、相当な良識をそなえながらも、自分の精神能力に十分な自信をもたない人々なのである。
78 驚きの過度はそれを正さないでおくと、習慣になる
そして、人は珍しいものに出会って驚くことがたび重なると、次第にそれに驚かなくなり、次に現れうるものはありふれたものだとと考えるようになるのだから、この驚きの情念は慣れるに従って、力を失っていくように見える。しかしながら、驚きが過度である場合、すなわち、そのため眼前に現れた対象の最初の像にのみ注意を奪われてしまい、その対象について他の認識を獲得することができないようになる場合には、この情念はほかのどんな対象が現れても、それが少しでも自分にとって新しいと見えるならば、同じように気を取られてしまうという習慣をあとに残すのである。
そしてこのことが、盲目的な好奇心を持つ人々の悪癖、すなわち珍しいものを、認識するためでなく、ただそれに驚くために、求める人々の悪癖を、いつまでもつづかせるのである。なぜなら、彼らはだんだんに驚きやすくなって、最もつまらぬものでも、求めて益あるものと同様に、彼らの心を奪うことができるほどになるからである。