クリエイティブであるということの社会実装
結論から言ってしまうとかなり前時代的になっていると感じる。
要は王を戴いてひざまずく愚民どもという階級構造ができあがる。
なんでかというと「創作した」という事実だけがどうしてもひっくりかえせないので、それが明らかにその人の過去のうちのある程度を占めている限り「偉い」。権威的だと思う。
これは歴史上の王のあり方のアナロジーでとらえることができ、「みんな創作するべき」というのは資本主義的な価値においてみんな王になれるのだから王になるべきと言ってるのに過ぎない。
でもさ、例えば視線を記録できる眼鏡をかけてモニターの前に30分座って視線を記録し続けた一筆書きの線の乗った平面を創作と言ってもいいと思うんだけど、これって偉いかな。要は自分から見て予想される費やされた「膨大な」時間とか自分ができないないしやってないことをやってると感じたら偉いって言っちゃうだけなんだよね。これは相克したはずの場面なのでやめましょう。後ろを振り向いてはいけない。ひらめきがと言われてしまうかもだけど、これはひらめきから出た例じゃないよ、労力のかからない方法で才能のいらない方法で時間のかからない方法を考えたら人間の生理的な運動を記録すれば個性といってもいいかなと思っただけ。
っていうのはある種冗談なんだけど、何が言いたいかっていうと「各々がそれぞれが持つクリエイティビティを伸ばして活かして社会的に生きていく」というのが昔自分が描いた理想郷だったんだけど無理なんだよね、クリエイティブの受け取り方を感情的に制限しなくちゃいけない、人間の気持ちは操れないって後鳥羽上皇も言ってた。
どうしたらいいかって考えると背理法によりそもそもの問題点は過去や事実を足がかりに現存在を肯定していこうっていう姿勢自体な気がする。俺たちは相手の証明されてない未来のみを評価して「クリエイティブ」であると言わなきゃいけない。判断材料はほんとに「今この瞬間」しかない。評価基準は今までと同じでいい、相手の「今この瞬間」を見てその未来に「美」があるかどうか。それをもって創造性と呼びたい、過去は評価に値しない、というか評価できない、すると変になる。