どうしよう
文選の王粲の詩はリアリティがあり、生活の手段としての戦争がしっかりと刻まれている。手ぶらで行った人間が帰ってきたら抱えきれないほどの財宝を持っていたりする事実は生活のために戦争に行くことを簡単に肯定してくれただろう。曹操は金目の物を持って帰るために攻めたわけではないし、そういう名分を立てると、「裕福な」周りの家臣たちがしっかり止めてくれたと考えるのは難しくない。
われわれは豊かだし、お金のために戦争するぞといった為政者に反抗できない理由がむしろない。現実としてウクライナで火器を取り扱っているロシア人のなかに生活のための仕事として行動している人間が一定数いそうなのはむなしいが、基本的にはプーチンの大義名分をおかしいと思っているけど無理やり行かされているか、あるいは大義名分に呼応してその達成のために自分のできることとして戦争を選んでいるだろう。前者に関しては、民主主義国家が現実的に効力を発揮すると前提するならここまで至る国民の一部としてやるべきことがやれていなかったということだろうし、実際問題効力は有していない仕組みに依拠する権力を生活目線で肯定していたことが問題であるが、深追いはしない、われわれのことのようにも聞こえる。後者の場合、人権意識や情報不足によって自分の大義名分が為政者のそれと共鳴してしまっているという背景は単純に説明できるものではないだろう。プーチンと夢や大義について語り合ってやりこめられるようなそれらを持っていないと常に勝てない。弱者の武器として渡された人権は生活の前ではあまりにもろく、そもそも命を刈り取る形をしていないので、ここでの勝負はそもそも土俵に上がるために同じ立場でなければならない。こんな簡単に、我々は個々が王であることが求められる。
豊かであることが余暇をもてあますことと同義なのが資本主義の最大の欠陥である。散漫になった我々の注意は他者に向き、あらゆる形で目に留まる生活に対しての立場の上下が我々に負の感情をプレゼントしてくれる。そうならないように、「生活を忘れさせてくれる」ように、エンタメは作られる。そもそもまだまだ生活が忙しい我々の余暇は2時間半の動画によって生活とは全く別の形で沸き起こる強制された感動によって埋められて、いつの間にか日が昇る。東に光る太陽とをそれに照らされる地球に立ちながら見るだけで、作り手と受け手の非対称性はほとんど自明に立ち上がっている。この非対称性が我々にプレゼントしてくれようとしているものの中にはさっきいらないといったはずのものが含まれているように見える。どうしよう。