想像力と
「隠語」は、無用の悪意をこめてそれとなく匂わされているように、外見を飾る道具ではない。それは一つの想像力であり(隠語は想像力のように人に衝撃を与える)、隠喩的言語への接近であって、やがて知的な言説はこの隠喩的言語を必要とする日が来るだろう。(ロラン・バルト 『批評と真実』p40)
説明的で明快であることが「論理学の形式的な言語は推論の正確な要請や、比喩表現の禁欲的なまでの欠如」を前提とする。「言語を構成している体系、つまり語の意味を生む諸関係を取り去って言語を「還元」することも可能である」「書くということが、あらゆる読者の平均値と安易な関係を結ぶことではなく、われわれ自身の言語と困難な関係を結ぶこと」
意味を生成する批評の営みを消費ではできない
意味はことばの領域にのみあるのではなく、現象のなかに認識とは独立に存在する。現象を目の前にして、ことばをあてがうことは意味の生成として独善的なやり方ではあるものの、依然としてやり方のひとつである。現象は意味の集合体であり、消費はその集合の要素に対する認識の一形態にとどまる。その意味の全体をもう一度現象から離れた場所に現前させる試みを批評と呼ぶ。一形態を享受することに満足せず、謙虚に全体を志向し続けること、これが批評精神であり、現象を前にした認識の在り方として最も勤勉な態度である。
↑に書き直した。同じ意味です。
(作品を受け取るという前提で、批評的に見れなければただの消費という定義。批評的であることは、「趣味」ではない。価値でのみしか物を語れないのは貧しい。「価値観」という考え方が貧しいのはそれのせい。現実に当たれてない。一枚かまさないと世界に触れることができないということ。ただ一つの観点から世界に関して記述するとき、経験的な選択から「興味をひく」ものが語られるというとき、意味としてはいつも消費されるための現実の構造しか生成されていない。ただ一つの観点から生まれるそれぞれは常に同一の語りでしかない。この明快さが消費の生む知の縮減である。消費がそもそも作られたものだという説明。)
個性やクリエイティビティと隠喩的言語の相似について
ものを作り出すという行為において、それがリアリズム的かそうでないか、具体的には現実のもののアナロジーにとどめるか破壊的で中間的なものを志向するかも作者の計画と決定の総意である。隠喩的言語は立脚するアナロジーが現実と結びつくために、想像力の存在を確かめることができる。知的な言語が隠喩的言語に向かうのは差分が判別できない表現が、想像力を十分表現するには必要だからである。
その概念に道草なしで近寄るためのことばが用語である。このような接近の過程がアナロジーの根拠となる。隠語はこの道程の出発点と終着点をとりかえることで、知的な理解に作用する。つまりそもそも非連続的な2点が射程に入っていることが求められており、そうであるならばその2点が射程に入るか否かの判断の根拠となるものが想像力であり、個性であり、クリエイティビティといえる。
ある2点を同じ座標上におけると判断することが個性であり、その判断は個性を特徴づける個人の理解に立脚する。想像力とは現象を前にした個人の理解がそのまま出力に使われたときの呼称である。しかし、出力が現象として析出すると、途端に権利を失う。この権利の喪失は作者にのみ確認できる事柄であり、この独自性が現象と個人をつなぐへその緒であるが、独自性自身は現象として析出することはできない(なぜ?喪失だから?)。そのためこれを根拠に権利を主張することもできない。
言語へのまなざしがないような視座から生まれるものは満足な基礎づけは不可能である
言語感覚のないアナロジーはコピーにとどまる。破壊的で中間的なものは、言語によって張られる空間移動以外起こり得ない。十分に抽象化された概念の操作に対応する言語による活動に基づくことで中間的な操作が可能になる。
言語感覚のないアナロジーは単純に技術に全てを負った表現になる。手段が目的となるが、それでも平均的な読者との差分を価値とできる資本主義ならば、技術のみが差分であってもそれを隠すことが技術自体にそなわる能力であるために、このことを十分に追及し、責め立てることはできない。芸術家はその意味である程度工作人である。
現象に対して誰も権利を行使することはできない。現象はあらゆる方向に同じ顔を持つことができる。個人が現象を前にして基礎づけることはすでに神聖な領域での行動であり、その基礎づけが現象として析出することにもまた誰も権利を行使することはできない。
ミームと隠喩的言語の関連
ミームは常に現実のアナロジーのうち「あらゆる読者の平均値」が常に念頭にあるものの総称である。そのことで、平均的な読者が想像力によって衝撃を受ける。この衝撃が共有の対象になる。日常的な言語では差分以外は共有できない。
理解は近似的に一点とみなせる。この理解への写像は読者の平均値やその背後の分布とは関係なく、常に存在する。この理解への写像を志向する言語が隠喩的言語である。
さらに必要となるインフラの整備
現象が意味の集合体であることの素描
認識のなかでことばが占める領域とそれ以外の認識についての素描