評価経済社会
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〜〜〜〜〜〜以下、本文〜〜〜〜〜〜〜
では、堺屋が『知価革命』の中で述べている価値観の変化とはどんなものでしょうか? 堺屋は、いかなる時代、いかなる社会にも、社会の共通概念である基本価値観「やさしい情知の法則」があると書きました。
その法則を次のように定義しています。
「やさしい情知の法則」=「どんな時代でも 人間は、豊かなものをたくさん使うことは格好よく、不足しているものを大切にすることは 美しい、と感じる」
『 知価革命』より
堺屋はこの「根源的な法則」を、『知価革命』の中で何度も主張しています。
この法則を使って過去から現在における変革をとらえ直し、未来を予測しているのです。
>ある時代のパラダイム(社会通念)は、「その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか」を見れば明らかになる。
つまり、
それまで豊富だったものが急に不足したり、貴重だったものが急激に豊富になったり、と言った変化が起きる時、それに対応して価値観が変化する。
その変化によって社会は変化する
価値観変化の中心
ここまでで、私の言ったことを少しまとめてみます。
(1) 社会全体が巨大な変化の時期を迎えている。
(2) そのため、従来の価値観が全体として明らかに破綻しつつある。
(3) 変化している価値観を特定するために若者の嗜好を観察すると、価値の中心に「自分の気持ち」を置いていることが分かる。
(4)「自分の気持ち」が第一なのは、既存の価値観では、幸福が追求できないことが明らかだからだ。
(5) 彼らや私たちの価値観変化の中心には、私たちを幸せにできない「科学」と「経済」への信頼の喪失があることが分かる。
昔はほとんどの時代が評価社会=身分社会だった
「どんな家柄の家に生まれたか」によって、その後に就ける役職が決まる社会のこと
身分(評価)を上げるためには家柄だけではなく、人格や徳を磨く必要があった。
なので、周囲からの評判を高めるために儒教を学んだり、地元の名士から推薦してもらえるように孝行をする必要があった
それが、平安後期〜鎌倉〜室町時代に実力や才能があれば役職を与える「実力主義」の社会になっていった。
その流れで貨幣経済社会が発展していき、織田信長の時代には”楽市楽座”政策を行うレベルにまで商業が発展していった。
しかし、それも長くは続かず、実力主義が発展していった貨幣経済社会と、身分制度が広まった身分(評価)社会で分断が起き始めた
実力主義 VS 人徳主義
貨幣経済社会 VS 評価社会
新しい価値観を持った人 VS 古い価値観を持った人
勝ったのは評価社会。徳川家康は政策としてもう一度評価社会に世の中を戻した。
経済的な合理性を取っ払って、
1年おきに江戸に来させて諸大名の経済力を奪い、(参勤交代)
城や船や貨幣を新しく作ったり、改造したりすることを禁止したり
身分による上限関係を絶対的なものにした。(士農工商)
その結果として、経済的に豊かな社会というよりは、文化が豊かな江戸時代に変化していった。
まとめ
社会が安定している時:徳や人格が重視される「評価社会」になる
室町〜鎌倉時代、それに江戸時代
争い事があまり起こらない停滞期のとき
一部の権力者が富を独り占めしてしまうことになる
結果として、庶民のくらしはあまり豊かにならない。
社会が不安定な時:才能がものを言う「実力社会」になる
戦国時代、20世紀後半の日本
争い事ばかりで地方の有力者が出現し始める
評価社会だと地方で人徳があり有名な人でも、都会に行けば「おまえ誰?」みたいに全然通用しなかった。
徳や人格が評価されるためには、関係性を築きあげるため、時間がかかった
それは、本人んのスゴさを説明してくれる人や証明してくれる実績がなかったから。
つまり、上記の評価社会にインターネットが加わると...?
経済性が加わることになる
よって、評価社会+経済性=評価経済社会へ
要は、「評価社会」と「評価経済社会」の違いは、田舎で得た評価が都会でも同じように通用するかどうか。
田舎で人格者であったなら、都会でも人格者として通れる状態のこと。
つまり、評価という「通貨の兌換性」が保証されているかどうか、ということ。
貨幣経済社会=モノとお金を交換する世界
評価経済社会=評価と影響力を交換する世界
お金を使って評価を得るのがコスパ最悪
評価を使ってお金を得るのはコスパ最高
今後はテレビに出るためにお金を支払うことになる世界になる
つまり、自分を有名にしてくれるメディアや、コンテンツや、人にお金が流れる世界
有名な漫画IPの主人公の声優を事務所がわざわざお金を出して権利を買う世界
オーディション(発注側)からオークション(受注側)へ
https://youtu.be/MlTIvppJoXg
評価経済社会での個人の振る舞いには特徴が3 つある
1. 他人をその価値観で判断する
2. 価値観を共有するもの同士がグループを形成する
3. 個人の中で複数の価値観をコーディネートする
評価経済社会で求められる「商品」
さて、ここまでで「様々な価値観やイメージ、センスがあふれるこれからの評価経済社会では、これらを常に複数選択してコーディネートし、『自分の気持ち』を満たしていく」という仕組みを説明しました。
では、こういった評価経済社会でのニーズに合ったイメージ、価値観とはどんなものでしょうか。言い換えればどんな商品が、これからは必要とされているのでしょうか?
一つ目は用途が限定されていて、分かりやすいことです。
たとえば刃物より包丁、包丁よりパン切り包丁の方が何に使うか分かりやすい。同じように価値観やイメージも極端で、ある場面でしか使えないけど、その分単純で分かりやすい方が消費しやすいといえます。
人生論より恋愛論、恋愛論より失恋論、失恋論より離婚女の世界観の方が、より専門化され、利用しやすくなっています。
また、分かりやすいためには極論が必要です。
離婚女の世界観では「離婚して初めて本当の恋愛ができるようになる。本当の男の値打ちが分かるようになる。本当の人生が歩めるようになる。離婚を経験してない人間なんて半人前よ」といった、「決めつけ」と「勢い」が必要です。この極論が問題を分かりやすくすると同時に、専門化させるわけです。
ツイ廃のノウハウが言語化されてて草だった
二つ目はキャラクター、つまりその価値観を誰が提唱しているかです。
近代では、大手メーカーが売っている電化製品は、三流メーカーのものより高くても売れました。洗脳社会においては、離婚女の世界観は見ず知らずのエッセイストが書くよりも、先日離婚した有名女性キャスターが書いたものの方が圧倒的に支持されます。もちろん、たとえ内容が同じであってもです。
逆に、身近な友達が考えた価値観を取り入れるというようなことはほとんどしません。だいたい自分で価値観をつくる人など、ほとんどいないでしょう。近代では自分で作った服を着たり、友達の作った服を欲しがったりする人が珍しいのと同じことです。
評価経済社会を生きる人たち
友達同士では、その服がどこでいくらで売っていたのかを話題にするように、その価値観は誰がどんな媒体で発言していたのかを話題にすることになります。
そういった価値観をいかにうまく無理なくコーディネートしているか、が友達同士の間での評価の対象になったりもします。話題が変わるたび別の人の別の考え方を持ち出してきて、それがいつもおもしろい、というのがセンスのいい人というわけです。
近代人が様々な店に行って必需品を買いそろえるように、これからの人々は様々な価値観やセンスを持つ様々なグループと接したり、ネットで話したり、テレビで見たり、本で読んだりすることで、自分の心に必要な喜怒哀楽を取りそろえるのです。
それは帰属意識であったり、優越感であったり、知的興奮であったり、楽しい恋愛ゲームであったり、ちょっとした闘争心であったり、様々です。
たとえば、私たちがスカッとするためにアクション映画を見に行くようなことが、生活のあらゆる面で行われると考えてください。スカッとしたい、ほのぼのしたい、熱血したい、しんみりしたい、等々。彼らが「大切にしたい」と考えている「自分の気持ち」というのは、こういったものの総体です。
この「自分の気持ち」の奥には、すべての人間の行動原理となる不安が隠されていることは言うまでもありません。それは孤独感であったり、疎外感であったり、劣等感であったり、といったどうしようもないものです。
近代人が肉体の求める食欲とさほど関係なく、自分の好みで朝昼晩の食事を決めるように、洗脳社会の人々は毎日の生活を、そういった「自分の気持ち」つまり不安を満たすためにコーディネートします。
好きなものばかり食べて体を壊す人がいるように、これからの人たちは、たとえばオカルトマニアが過ぎて心を壊す人が出るようになるでしょう。栄養バランスを考えた食事が大切なように、精神バランスを考えた価値観コーディネートが大切になります。
近代人が様々な店に行って必需品を買いそろえるように、これからの人々は様々な価値観やセンスを持つ様々なグループと接したり、ネットで話したり、テレビで見たり、本で読んだりすることで、自分の心に必要な喜怒哀楽を取りそろえるのです。
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付き合いたい人とだけ付き合うという「ワガママ」が、いいことになるのです。「人間らしい幸せな生き方」とは、ちゃんと自分に合った人たちのグループをいくつも見つけ、自分の時間をうまくコーディネートしている人のことです。同時にそういった人が周りから見ればカッコイイ人、自分を大切にする人になるわけです。
その代わりに私たちが手に入れるのは、その時その時にとってベストの、一緒にいる人を見つける自由です。他人に関係を束縛されない自由です。
自由で束縛されないということは、常に不安定で、意識していないと失ってしまうということです。私たちはいくつもの人間関係を維持し、自分にとって心地よい距離に保つために、いつも気を使い忙しくしていることになるでしょう。
たとえば高校時代の親友と常に友情を保つためには、努力が必要です。住む場所も社会的環境も変わると、よほど意識しない限り、お互い音信不通になってしまいます。月1回電話する、年1回お正月には会うといった取り決めでもしない限り、関係を維持することは難しいでしょう。
将来、私たちの手帳はそういった付き合いを維持するための取り決めで、スケジュール表がぎっしり埋まってしまうこととなるでしょう。それはついこの前まで、給料はもちろん今度のボーナスまで、何に使うのかの予定をびっしり決めていたのと同じことです。
それでもあと1万円あったら××が買えるのに、と考えていたのと同様、あと1時間あったら○○の集まりにも行けるのに、と考えていることでしょう。
これもVRChatで既に実装されてる
現在それと同様の、大きな変化が起こりつつあります。
私たちは、家族や会社・学校といった既存の安定したグループに所属していることを放棄しつつあります。その変化の中で、私たちはかつてのような人間関係を永遠に失いつつあります。
しかしその結果、私たちは「何ものにも自分の人生を縛られない」という自由を得ることになるでしょう。
ひょっとしたら、それは高すぎる買い物かもしれません。しかしそれは、核家族で子供の数も少ない現代、大切に育てられた私たちが、ひ弱になった心のまま幸せに生きていく唯一の方法なのです。
第5章 新世界への勇気
農耕民族がかつての自由を取り戻すために、農業を捨てて飢えにおびえる生き方に戻ることはできません。
都会人が安心を取り戻すために、豊かさを捨てて祈るだけの毎日に戻ることはできません。
私たちは進歩や正義を取り戻すために、自分の気持ちや自分らしいネットワークを捨てることはできないのです。
クラウド・アイデンティティー問題
私たちはいま、どんなふうに「考えている」だろうか?
物事を考える時にはネットを使うことが多い。
分からないことがあったらウィキペディアで調べたり、ブログを書くときにも、ニュースサイトや他のブログでどういう書かれ方をしているかをリサーチした上で、じゃあ、自分だったらどう書こうか?というふうに判断する。
おそらく大部分の人が、こうやって「考えている」はずだ。
こういうやり方を「集合知」と呼ぶ人もいる。
さて、私はこの集合知は同時に「クラウド・アイデンティティー」という問題を生むと考える。
アイデンティティーがクラウド化する、つまり「自分とは何か?」「自分の考えとは何か?」という自我そのものが、どんどんとネットのクラウドの中に溶けていってしまうという問題だ。
ネットワークの中に居ることが当たり前になった時代の私たちには、そういう「サークルから離れた自分」というのが持ちにくくなっている。
先ほどのたとえで言えば、その例会のメンバーと飲みに行った時にでも「お前のサークルの事情は分かった、じゃあお前個人の考えはどうなんだよ?」と言われたら、「いやおれの考えは…」と話せる“本音”というものがあったわけ。
でもネット社会にいる私たちにとっての“本音”というのは、誰の意見が自分に近かったっけ?とネット内を探すことになってしまっている。
現在の私たちは、すでにそういう思考法や発想法を当たり前だと思っている。「私が“私たり得る”部分」、つまり自我領域や自我境界そのものがネットと一体化しネットに溶け出している状態。
それを私は、魂がクラウドの中に溶けていってしまう「クラウド・アイデンティティー問題」と呼んでいる。
ネットワーク社会では、「自分の本音」が持ちにくい。
TwitterでRTしたり同意したりしてると、人の考え方や価値観をどんどん取り入れてるだけの自分に気がつく。
ニコラス・カー著『ネットバカ』の中に「ハイパーテキストを読んだり、ネットで資料を読むということが、人間の脳の機能、考え方、価値観をどのように変えてしまうのか」という記述がある。
著者のニコラス・カーはもちろん、「読書は良いもの、得難いもの」と考えている。同じように、ネットも「活字以来の人類の大発明」と考えている。
しかし、そういう人でも、ウィキペディアで得られた「知識」は本を読み、思索することによって得られる「知恵」にはかなわない、と考えているんだ。
さて、ニコラス・カーは西洋型の知識人だから、「自分の存在根拠=アイデンティティー」は自分の内面にある、と考えている。自分の魂は自我の中にあるという強い確信があるわけだ。
しかし、私は「物事に中心はない、すべては関係性の中のベクトル、つまり“力と方向”でしかない」と考えている。これは20世紀最大の知性バックミンスター・フラーの発見したジオデシック構造の考え方だ。
物質というのは突き詰めていくと質量、それも突き詰めていくと方向と引っ張る力くらいしかない。つまり「モノ」は存在せず、「関係」しかこの世には存在しない。
さて、以後はこれの応用だ。
物事、つまり物質世界に中心がない・本質的な存在がないとすると、「自己」も同じじゃないのか?
「自分の存在根拠=アイデンティティー」は自分の内面にある、というのは壮大な勘違いかもしれない。
私たちは今や「考える=ネットで賛同できる意見を探す」になりつつある。
それらの意見を混ぜたりコーディネートしている、と思い込んで、なんとか自分の独自性や根拠を得ようとしている。
でも、そういう「考える」という行為自体、必ず「学んだ言葉」を使うことが前提だ。「学んだ言葉=誰かが言った言葉」。言葉を模倣し、使いこなすことを私たちは「考える」と呼んでいるにすぎない。
ネットの出現により、私たちは思考そのものを外注化(アウトソーシング)することになった。
その結果、クラウドで考える「クラウド思考」になってしまった。ここまでは指摘する人もいる。でも、問題はこの先だ。
するといつの間にか私たちは、クラウドにアイデンティティーを置くようになる。
自分は今のままでいいのか?
自分の意見はみんなに認めてもらえるのか?
今の大学生や高校生が携帯を一時も手放せず、しょっちゅう友達と「繋がり合う」のは、彼らが、そして私たちが「クラウド上に自我の半分以上」を置いているからだ。
果たしてこれは嘆くべきことか?
それとも時代の必然なのか?
それは私の判断すべきことじゃない。
ただし、「自我を全部クラウドに溶かしちゃうのは危ないよ」というのは言えると思う。
自分の中で譲れない、「クラウドのみんな」に認めてもらえなくても守りたい一線。
人には打ち明けられない、自分でもとらえどころのない衝動やコンプレックスや価値観。
それはかつて「魂」と呼ばれた。
今、それを「ゴーストライン」と呼ぼう。
ギルバート・ライルは、「我々は機械(身体)の中に住む幽霊(心)なのだ」と言った。
しかし機械とは身体ではない。「周囲という環境」「ネットという環境」の二つに挟まれた、私たちの脳髄。これら二つの環境と一つの肉体の“合間”に発生した「幽霊」が私たちの心だ。
脳と現実環境。この二つの接点にかつて魂(ゴースト)は発生した。だから私たちは周囲と自分の関係に悩んだ。
今、脳と現実環境とネット環境、この三つの接点に私たちのゴーストは存在する。
そして、ネットや周囲の人間関係に譲れない自分の一線、それがゴーストラインだ。
ネットは便利だ。mixiやtwitterでいろんなことを教え合ったり認め合ったりする。
それはいいことなんだけど、自分を失くす行為かもしれない。
でも、そんなこと言い出したら人間どこにも所属できない。
「ネットに溶けない自我」というのが絶対にいいものだとも思っていない。
ただネットの魔力というのはあるよね。ネットの中で繋がっていて、そこからはずれることが「自分を失うこと」と同じ意味になってしまう。
さて、おっかない話を書いてるみたいな気がするけど、ちょっと逆方向から考えよう。
クラウド・アイデンティティーは問題ではなく、利点だと考える。
実は、これまでも人間は自我というものを家族や社会のクラウドに置いてきた。ネットによってその速度が爆発的に進んだに過ぎない。
自分の中では思考をジャグリングしているから、移り気に色んな事を考える。
その中のコアみたいなものは自分の脳じゃなくてスマートノートに作ればいいだけじゃないの?
「自分」の第一段階は、自分自身の脳だろう。
でも、それ以前のゼロ段階に、自分のスマートノートを置く。
その外、第3段階はリアルの世界と、「サロン」だろう。
さらに次の第4段階が、ネット世界。
「サロン」とはネット上の小規模団体だ。
通常のネットは巨大すぎる。巨大ゆえに、そこの「みんな」が「社会のみんな」に見えてしまうから危ない。
でもその機能を使わないわけにはいかないから、こういうふうに「段階」というものを分けて考える。
まず自分がいる。(第一段階の脳)
その一つ前のゼロ段階に、自分自身の考えを書き続けたスマートノートがある。これは「自分のアーカイブ」であり、「かつての自分」だ。
今の自分というのは、ノートや環境との"差分"だと考えればいい。
その上の段階、すなわち第2段階にリアルな家族、友人関係がある。
リアルだけでなく、ネット上でも互いを見知ってる状態、お互いにどういう人でどういうニュアンスで言ったのかがわかる「サロン」があって、そこにクラウド・アイデンティティーが発生する。
私の主宰するオタキングexやクラウドシティも、その「サロン」の一つだ。初期の参加者が少ない時代のmixiなども「サロン」だった。
そのさらに外に、広大なネットの海がある。
ネットの海は、まるで現実の海が太平洋・大西洋・インド洋と分かれるように、mixiっぽい意見、2ちゃんっぽい意見、twitterっぽい、学生っぽい、ビジネスマンっぽい、オタクっぽい意見がある。
でもそういうクラウドはあまりに巨大すぎて、それぞれの顔が見えなくて、どんな人が言ってるのか分からない。むき出しの自分と対峙させると、あっという間に自分が溶けてしまう。「自分の意見」なんかまるで通用せず、「自分が賛成できる意見」「代弁してくれる意見」のみを探してしまう。つまり「ゴーストラインが侵略されて、自分が溶けてなくなる」。
そう、リアル脳とクラウド脳しかなかったら、考え方、アイデンティティーはどんどんクラウド側に「溶けて」いってしまう。
それを防ぐための防衛線として、スマートノートという「自分の内部のゴーストライン防衛装置」と、リアル関係やサロン的ネット社会という「社会に対する時のゴーストライン防衛装置」が必要になるだろう。
生命は深海ではなく、浅瀬で誕生する。
出会いや関係は間に生まれる。
川や街道などの境界線に、いつも文明が発生してきた。
私たちは「ネットという広大な知の海」に対して、薄くてしなやかな皮膜を持たなくてはいけないのだ。