愛するということ
愛は技術ではなく(つまり学ぶものであるとは考えず)、愛を経験できるかどうかは運の問題で、運が良ければそこに「落ちるもの」だと考える人が現代には多い。
そのような思い込みはいくつかの前提にたっている。
1. 愛の問題を愛されるという問題として捉えている
なぜそうなってしまったのか
愛の対象の選び方が20世紀になってから大きく変化したこと
ヴィクトリア時代(1873~1901年代)には愛は、「結婚へと進展しうる自発的で個人的な体験」ではなく、結婚した後で初めて愛が生まれるのだと考えられていた。しかし、この数世代の間に、恋愛という概念が西洋社会に広く浸透した。愛は結婚へと結びつくような個人的体験としての愛を追い求めている。この自由な愛という新しい概念によって、能力よりも、対象の重要性がはるかに大きくなったのである。 恋愛対象は、自分と交換することが許容可能な範囲の、「商品」に限られる。
愛することは自分の命を相手に与えることである。
子供の孤独の克服
愛されることによって何かをもらうには、何かに依存するということである。愛されるためには自分は小さく無力で病気でなければならない。しかしながら、思春期になると、子供は自己中心主義を克服する。愛することで、子供は、ナルシズムと自己中心主義によって気づかれた孤独と隔離の独房から抜け出す。愛することを通じて、愛を生み出す、能力を自分の中に感じる。
幼稚な愛と、成熟した愛
幼稚な愛は、「愛されるから愛する」という原則に従う。しかし、成熟した愛は、「愛するから愛される」という原則に従う。未成熟な愛は、「あなたが必要だから、あなたを愛する」といい、成熟した愛は、「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。
愛の能力の発達と、愛の対象の発達
上で見たものは、「愛の能力の発達」である。一方で、愛の対象の発達も存在する。生まれてから数年間は母親に愛着を持つが、ゆくゆくは父親の愛着に移行していく。子供を教育し、世界へつながる道を教えるのが父親である。また、父親の役割は、社会や経済の発達と深い関係がある。父親は自分の財産を託せるような息子に財産を託する。父親の愛は条件付きである。「お前は、私の期待に応え、自分の義務を果たし、私に似ているからお前を愛する」と言う条件付きの愛の原則がある。
成熟した人間は、自分の外にいる父や母から自由になっており、自分の内部に母親像・父親像を作り上げている。成熟した人間は、母親の無条件の愛と、父親の条件付きの愛(理性、法、秩序)の両面を持ってして、人を愛する。
愛の対象について
愛とは、特定の人間に対する関係ではない。政界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。特定の人間に対するそれは、愛では無く、「共棲的愛着」あるいは、自己中心主義が拡大されたものにすぎない。一人の人を本当に愛すると言うことは、全ての人を愛すると言うことである、世界を愛し、生命を愛すると言うことである。
愛の種類
友愛
あらゆるタイプの根底のある最も基本的な愛。あらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、知のことであり、その人の人生をより良いものにしたいと言う願望のことである。自分の役に立たない人間を愛するときにこそ、愛は開花し始める。
母性愛
母親からの無条件の愛の2つの側面
子供の生命と成長を保護するために絶対必要な、気遣いと責任
生きることへの愛を子供に植え付け、生きていることは素晴らしいと言う感覚を子供にあたるような態度
乳と蜜の流れる地=大智=約束の地
乳は、愛の第一の側面、すなわち、世話と肯定。蜜は人生の甘美さや、人生への愛や生きていることの幸福を象徴している。
子供が自分の近いところにいる間に愛することは簡単であるが、親は子供の成長を望み、巣立ちを後押ししなければならない。自己の、創造主としてのナルシズムを超越して子供を愛せるには、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが子供が離れていく段階になっても愛情深い母親でいられるのである。
恋愛
友愛は対等な者同士の愛。母性愛は、無力なものへの愛である。その両者は、対象が一つに限定されない。友を愛すると言うことは全ての人を愛することであり、自分の子供を愛すると言うことは、世界中の全ての子供を愛することである。恋愛はそれらとは違う。限定的である。しかしそれは、性的融合、すなわち、人生の全てにおいて、全面的に関わり合うと言う意味においては、他の人に向けられた愛を排除するが、深い友愛を排除することはない。恋愛において、人は相手を通して人類全体、さらにはこの世に生きているもの全てを愛する。恋愛は、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的なのである。
恋愛には、それが愛と呼べる者なら1つの前提がある。
自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わり合うということである。本質において全ての人間は同一である。
友愛との違いでいえば、完全に融合するか否か。
そうであるならば、誰を愛するかは問題ではない。
こうなってくると、当事者二人が誰であるかは問題で無く、意志と決断によったのだから一度結婚してしまったら、愛の持続を保証すべきである、と考える人も出てくるかもしれない。
それは違う。確かに同一であるが、一人一人は唯一無二の存在である。
故に恋愛においては、個人的な要素が重要になってくる。
自己愛
このように自己愛が悪い者だとすれば、自己犠牲は美徳ということになる。
むしろ自己愛が欠如しているために、利己主義的になっているのではないか。
フロムのスタンス
他人に対する愛と自分への愛は両立しないという考えが論理的に間違っている。
聖書においても、『汝の如く汝の隣人を愛せ』という考え方の裏にあるのは、自分の個性を尊重し、自分を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することと切り離せない。
自分を愛する態度は、他人を愛せる人全てにみられる。
ひとりの人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。
確かに現実には特定の個人を愛するときに初めて人間そのものを愛することになるが、人間そのものを愛することは特定の人間を愛することの前提である。
以上のことから、私自身もまた他人と同じく私の愛の対象になりうる。
自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根差している。
自己愛と、利己主義は正反対のものである。
利己主義の人は、自分を愛せていないのである。本当の自分を愛することができてないからこそ、なんとか埋め合わせごまかそうとする
例えに、自分の子供をかまいすぎる母の例が挙げられている。母は自分は子供のことを深く愛せていると思っているが、実のところ、子供のことを深く愛せていないのである。
非利己的な母親の影響は、利己的な母親の影響と対して変わらないのである。いやもっとたちが悪いのである。
自分自身を愛する母親に愛されるのが一番だ。
自分を愛し、同時に全ての人を等しく愛する人は、偉大であり、正しい
他人を愛するということの態度と自分を愛するということの態度はつながっている。(なぜならば、他人だけでなく、私たち自身も私たちの感情や態度の「対象」になりうる。)他人への愛と、自分への愛は二者択一ではない。そうすると、自分を愛することができない人間がどうして他人を愛することができるのだろうか。
神への愛
神の概念を理解するためには、まず神を崇拝する人間の性格構造を分析する必要がある。
神への愛の特徴は、それぞれの宗教における父権的な面と、母権的な面の比重によって決まる
それぞれの特徴
父権的な側面
紙は正しく厳格で、罰や褒美を与えるものであり、最後には私をお気に入りの息子として選ぶだろう
母権的な側面
ひたすら抱擁してくれる母親のように愛する。たとえ私が、貧しかろうと、罪人だろうと、無力だろうと、神は私を愛し、私の身に何が起ころうと、私を救ってくれて、許してくれるだろう
神の姿の遷移
動物など→偶像(人間が自分で作ったものに神を宿す)→人間の姿→捉えることのできない神
真に宗教的な人とは
何かを願って祈ったりしないし、神に対して一切何も求めない。
心理について施策し、身を以て愛と正義を生きる
神を愛するということは、最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、神が象徴しているものを実現したいと望むことである。
逆説論理学(東洋、ユダヤ)とアリストテレス論理学(西洋)
逆説論理学
人は矛盾においてしか知覚できず、最高の唯一の実存である神を思考によって知ることはできない。
矛盾とは
2つの対立するものが知覚されるのは、物が対立しているからではなく、知覚する心が分裂し、互いに対立しているからだ
よって、思考の中に答えを求めることを究極の目的にしてはならない
思考は単に、思考によっては、究極の答えを知ることはできない
結論
神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。
思考ではなく行為が重要
アリストテレス論理学
最高の心理は正しい思考の内にある。思考重視。
思考によって真理を発見できるという考えは、科学をうんだ。
結果として
逆説的思考は、寛容と自己変革のための努力を、
アリストテレス論理学は、教義(カトリック教会)と科学(原子力)をうんだ。
発達過程
母なる女神への無力な者の依存→父性的な神への服従→愛と正義を自分の中に取り込み、神と一つになり、詩的に、あるいは象徴的にしか神について語らなくなる。
この点で、神への愛は、親に対する愛と密接な関係にある。
愛と現代西洋社会におけるその崩壊
愛が成熟した生産的な能力だとしたら、どんな社会に生きる人もその愛する能力は、その社会が人々に広く及ぼす影響に左右される。現代西洋社会における愛について論じることは、すなわち、西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神が、愛の発達を促進するようなものであるかどうかを問うことだ。
西洋社会を客観的に見れば、明らかに友愛・母性愛・恋愛を問わず、愛が比較的まれにしか見られず、様々な愛にとって変わられている。この偽りの愛こそ、愛の崩壊の現れに他ならない。
資本の集中によって
管理者への依存
資本においても、労働力においても、主導権は個人から組織へと移行してきて、巨大な経済帝国の管理者たちに依存するようになってきた。
労働の組織化
徹底した分業体制によって、個々の労働者は個性を失い、使い捨ての機械部品のようなものになっている。
結果として
現代資本主義社会は、自分の目的がなくとも、「成功せよ」「自分の役目を果たせ」「ただ前を見て進め」と言った目的に従って働く人間を必要としているので、現代人は、自分自身からも仲間からも、自然からも疎外されている。
現代人は商品と化し、自分の生命力を費やすことをまるで投資のように感じている。投資の最大効果を上げるために、考えも感情も行動も周囲と違わないようにしている。そうしないとはみ出しものになってしまって、自分という商品の価値が下がってしまうから。ゆえに誰もが孤独である。
そうした孤独への鎮痛剤として
手順と娯楽
制度化された機械的な仕事の厳密に決められた手順。これによって、本来の人間の欲求である、合一体験への憧れから目を逸らす。その意味で世界は、大きな乳房である。限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。私たちの性格は、交換と消費に適応している。物質だけではなく、精神も交換と消費の対象となっている。
チームという観念
結婚の理想は円滑に機能するチームだ、とする記事があるが、そうした発想は、滞りなく役目を果たす労働者という観念とたいして変わらない。
チームの関係を続けていると、二人の間柄がギクシャクすることはないが、二人は死ぬまで他人のままであり、決して「中心と中心の関係」とはならず、相手の気分を良くするように努め、礼儀正しく接するだけの関係にとどまる。
この二人は、世界に対して、二人からなる同盟を結成する。これは利己主義が二倍になったものに過ぎないが、それが愛や親愛の情だと誤解されている。
愛は性的に惹きつけ合うことの結果というフロイトの立場
愛とは性的満足のことだというフロイトの理論は、一般に広く流行した考え方でもあった訳だが、この考え方に影響を与えたのは、次である。
ヴィクトリア時代の厳格な性道徳に対する反動
資本主義の構造に基づいた人間観
資本主義が人間の自然な欲求に応えるものであることを証明するには、人間が本来競争心が高く、他の人間に対する敵意にあふれていることを示す必要がある
ダーウィンの適者生存
フロイトの次の仮説
男はすべての女性を性的に征服したいという欲望によって突き動かされており、欲望のままに行動しないのは社会に圧力によって抑えられているからとする。ゆえに男は互いに嫉妬しあい、競争心を持つ。と証明した。
唯物論
あらゆる心理現象の原因は生理現象の中にある。とする考え方。
ゆえに
フロイトは、愛、憎しみ、野心、嫉妬などはすべて性的本能が様々な形をとって現れたものだと説明した。
それに対するフロムの意見
フロイト:いやいや基本的な心理は人間の生の全体性の中にある。生理現象の中に心理現象は収まらない。
すなわち、
すべての人が等しく置かれている状況の中に心理現象はある
特定の社会構造によって決定される生き方の中にある
偽りの愛
偶像崇拝的な愛
特徴
出会いの瞬間に突然激しい恋に落ちること
しかし、渇望と絶望が深刻
感傷的な愛
特徴
空想の中で愛が経験されること
相手の時間軸を勝手に変えてしまうこと
この点で、現代人は過去か未来にいき、現在を生きていない
投射
自分自身の問題を避け、その代わりに愛する人の欠点や弱点に関心を注ぐ
自分の問題を子供に投射することもある
自分の人生に意味を見出せない人は代わりに子供の人生に意味を見出そうとする
愛があれば対立は起きない、という幻想
破滅的な対立をよく見かけるが、なぜ双方に好ましくない結果しかもたらさないかといえば、ほとんどの対立は、実は真の対立を避けようとしている企てに過ぎないからである。
二人の人間の間に起きる真の対立、すなわち何かを隠蔽したり、投射したりするようなものではなく、内的現実の奥底で体験されるような対立は、決して破壊的ではない。そういう対立は、必ずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知と能力を得る。
二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で通じ合う時、それぞれが、自分の存在の中心において自分自身を経験する時、初めて愛が生まれる。←愛の生まれる瞬間
そうした愛は、絶え間ない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、、成長であり、共同作業である。
自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。
愛の習練
愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法は無い。
ゆえに、愛の習練について、論じるにあたって、筆者にできることは愛の技術の前提条件についてしか述べることである。
前提条件
規律
規律正しくやらねば、どんなことでも絶対に上達しない。
もし規律を失って仕舞えば、人生はバラバラになって混沌とし、何事にも集中できなくなる
大事なこと
規律が外部のものに依存するのではなく、自分の意志の表現として規律をうみ、楽しいと感じられ、ある特定の行動に少しづつ慣れていき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになることだ
集中
大事なこと
一人でじっとしていられること。それこそが、愛する能力の前提条件なのだ。
つまり、自分自身の中心を見つめること、認識できることが大切なのか?(私見)
何をするときにも集中すること。
悪い仲間を避けること
精神を集中させないで何かをしていると、すぐに眠くなってしまい、そのおかげで1日の終わりにベッドに入ってもなかなか眠れない。
つまり
変化に気づくこと。
理屈を持ち出して、その変化を安易に合理化しないこと;。
内なる声に耳を傾けること
忍耐
現代は、みんな速さを求めるから忍耐が難しい
技術の習得に最大限の関心を抱く
能動性
精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。
隣人愛
隣人愛とは、隣人に対して責任を感じ、自分はその人と一体であると感じることである。
愛の能力にとって特別な重要性を持つ特質
ナルシズムの克服
愛を達成するためには、まずナルシズムを克服しなければいけない。
自分の内に存在するものだけを現実として認識せず、客観的に人間や事物をありのままに見ること。
精神を病む人は、外界を自分の内的世界の象徴とみなす。あるいは自分が生み出したものとみなす。
誰しもある程度はナルシズムを抱いている。
ナルシズム克服のための理性 -客観的に考える力-
理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。子供の時に抱いていた全知全能への夢から醒め、謙虚さを身につけた時に初めて、自分の理性を働かせることができ、客観的に物事を見ることができる。 結論
人を愛するためには、ある程度ナルシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。 信じるという資質
信じるという問題について考える前に、まず、理にかなった信念と、根拠のない信念とを区別しなければならない。
根拠のない信念
道理に敵わぬ権威への服従に基づいた信仰のこと。
理にかなった信念
自分の思考や感情の経験に基づいた確信である。
人間の努力のどんな分野においても、創造的思考のプロセスは「根拠のあるヴィジョン」から始まる。
ヴィジョンを追求するに値する道理に適った目標として信じること
仮説を信頼できそうな前提として信じること
出来上がった理論を、少なくともその正しさが一般に認められるまで信じ続けること
理に叶った根拠を持つには、自信がいる
信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力に対する自信に根差している。
他人を信じるとは
他人を信じるとは、その人の基本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものであると確信することである。
また、他人の可能性を信じることである。
可能性とは、人を愛するとか、幸福になるとか、理性と使うといったことに対する可能性、あるいは芸術的才能のようなもっと特殊な可能性である。
自己を信じる
私たちは自己の中に、一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。
自己を信じることができないと、他人に褒められるかどうかに確信が左右されてしまう。
自分を信じているものだけが、他人に対して、誠実になれる。信念を持っているから、「自分は将来も現在と同じだろう。したがって自分が予想しているとおりに感じ行動するだろう」という確信を持てる。他人に対して約束をするための必須条件。
教育の反対としての洗脳
教育とは、子供がその可能性を実現していくのを助けることである。教育の反対が洗脳。
他人を信じることの究極
他人を信じることを突き詰めていけば、人類を信じるということになる。
次のような理念に基づいている。
人間には可能性がある。
ゆえに適当な条件され与えられれば、平等・正義・愛という原理に基づいた社会秩序を打ち立てることができる。
しかしこれを打ち立てるためには、信念が必要である。
この信念も願望的思考では無い。
人類がこれまでに成し遂げてきたこと
個々人の内的経験
自分の理性や愛の経験
によって裏付けられている
理に適った信念の根底にあるのは生産性である
信念にしたがって生きるということは、生産的に生きるということだ。
信念を持つ勇気
勇気とはあえて危険を冒す能力であり、苦しいことや苦痛や失望をも受け入れること。
信念と勇気の習練
ステップ
1. 自分がいつどんなところで信念を失うか、どんな時にずるく立ち回るか、それをどんな口実で正当化しているかを詳しく調べることだ。
そうすると次のことがわかる。
人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で愛することを恐れているのだ
全体としてのまとめ
愛は個人的な経験であり、自分で経験する以外に愛を経験する方法は無い。
とはいえ、愛は生産的な能力であるゆえ、社会構造のあり方に影響を受けることがある。
よって、社会構造のあり方を捉えることが愛のことについての究明への手助けになるだろう。
そこで、社会構造に目を向けると、そこは価値の交換によって市場が動いている。その中においては人はロボットのように個性を失い、資本家や集団の長に依存している。そして自分の生命力を投資して、より高い価値を生み出そうと躍起になっている。そういった市場は確かに公平ではあるが、そこには愛はない。愛の対象の問題に拘っている。愛は能力の問題である。
言い換えれば、愛は、能動である。つまり、
人を愛するということは、何の保証もないのに、行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。
そのためには他者の可能性を信じる勇気と信念が必要である。信じるためには、個々人の内的経験や自分の理性や愛の経験が必要である。自分自信を愛することができていて初めて、他人を愛することができるのだ。 信念を持って他人を信じることは究極的には、人類を信じることにつながる。人類を信じるとはつまり、人間には可能性があるがゆえに、適当な条件さえ与えられれば、平等・正義・愛という原理に基づいた社会秩序を打ち立てることができると信じることである。
なぜ決意を持つ必要があるのか。
何が決意を持たせるのか
完全に融合したいと思う心がそうさせるのでは? by kazu
では何が人を完全に融合したいと思わせるのか?
→この人と、おはようを言いたい。おやすみを言いたい。一緒にご飯を食べたい。一緒に感動したい。一緒に泣きたい。一緒の景色を見たい。そんな欲望では? by kazuhitonakayama.icon
なんで1人なの?
一夫一婦制が原因ではないか?by kazuhitonakayama.icon
現代社会において、結婚をする意味とは?
なぜ結婚するか?
江戸時代のときって共働きだったとしても経済的な独立ができてないだろう?