安全と安心の違い
文部科学省 「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」報告書 より
安全: 人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む。
安心: 人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること
安井至先生の定義
「安全」は評価できる
例えば、10万人あたりの死亡率で
例えば、残留農薬であればADIやARfDで
「安心」は評価不能
心理的な要素は客観的評価は無理
一般に安全になればなるほど不安になる
安心と不安は知識量と非線形の関係にある。
何も知らなければ不安を感じることはないが、少し知識を入れると不安はグンとあがるのが一般的。
ある知識量が増えピークを超えると、不安は下がっていく(完全にゼロにはならない)。
人々みんなをピークを超えるまで知識量を増やすしか不安を取り除く術はないが、それは不可能だろう。
京大変人講座より
安心・安全を混同することが有害な嘘になるパターン
1. 非常に危険な状態なのに、無理やり危険を見ない
客観的な「安全」が確保できないのに、無理やり自分を安心させようとすると、非常に危険な結末を引き寄せてしまいかねない。
2. 安心ができるまで安全を追求してしまう
「絶対の安心」を確保するために「絶対の安全」を確保しようとすることには終わりがない。
費用がとにかくかかる
1つの不安を取り除くことに躍起になってしまうと、気づかないうちに、まったく別のところから大きな危険を招くことがある。
3. 安心できないと、人に頼ってしまう
自分で自分のことを安心させれないと、他人に安心させて欲しいと強く願うようになる。場合によっては「占い」などに頼る。
安心保証国家
近代、福祉国家が発達し、国と専門家が安全性を保証してくれるようになった。
→ 国民一人ひとりが自らの安全を確保して、安心を獲得する機会が少なくなってくる。
→ 国民はものの安全性について自分の頭を使って考えることができなくなった。
安心保証国家のジレンマ
そもそも国の言っていること、あるいは専門家の言っていることに信用がおけるのかについて、誰がどうやって確かめればよいかわからなくなってしまう。
不安になっている人がいると、そこにつけ込む人が出てくる。
そのため国は人々の安心を優先させてしまう。
「みなさん、安全は確保できました。事態は完璧に掌握できています。どうか安心してください。」という嘘。
事実を歪めてまで「安心です」と発信し続ける。
「素人は黙っていろ」といわんばかりに居丈高に振る舞う専門家が登場する
不安カスケード
「不安」は人の心の持ちようなので、いったん「不安の種」が芽生えると、次々に不安が生まれれてくる。
自分で不安を解消させることをしないと、「絶対に安全だと言って欲しい」「安心させて欲しい」を要求し続けることになる。
専門家や国がそれを保証してくれたところで、自分ではその信憑性も、彼らの信頼性すら判断しようがなく、ただ無限に続く不安の中に突き落とされるだけになる。