計算する生命
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最高の読書体験。計算(Computation)を軸に古代ギリシャから人工知能に連なる思想史を鮮やかに繋ぐ。
数理論理学の祖であるフレーゲが、演繹の古代ギリシャ、観念のデカルト、判断のカント、概念のリーマンの延長線上で描かれる。さらにその試みは、チューリングを経て、人工知能に繋がってゆく。
人間の認識(認知)能力は「計算」の進化で少しずつ拡大してきた。
人間の認識が届く範囲が、少しずつ拡大してきた歴史でもある
古代、人類は粘土片で数量を把握していた。とても身体的で直観的。
アラビア数字が誕生し広まることで数字の概念化が始まる。
今となっては考えられないが、代数学及びデカルト以前は自然言語で計算(e.g. 十を二つに分けてそのうち一つにもう一つを掛けると結果は二十一)していた。
複素数の登場で平面から平面の変換になりグラフで扱えない写像概念が生まれた。
曖昧な自然言語でしか表せなかった数学の概念(e.g. 無限)をフレーゲが「厳密化」した。
等々。
本書では人類の認識能力の更新において、エポックメーキングを提示した思想家たちの知性のリレーが生き生きと紡がれている。
平べったく歴史を眺めると気の抜けたコーラのような非自分ごとの感想しか湧かないが、本書では「計算と人間の認識の関係性」がドッシリ横軸に通っているがゆえ手触りが生まれる。
身体的で直観的な計算が発展した結果我々は人工知能に行き着いた。結果として情報の海に巻き込まれコンピュータに近付いている。
スマホに流れてくる情報に反射しながら、ゆっくりと息つくまもなくせっせとデータをコンピュータに供給し続ける私たちは、計算を生命に近づけようとしているより、みずからを機械に近づけようとしているようにも見える
我々はそもそも生命である。
コンピュータが人間に近づくより人間がコンピュータに近づき、人間の知性が機械のようにしか作動しなくなることを恐れるべき、という半世紀前のドレイファスなる人物の警告は現在ひしひしと感じられます。
人間はコンピュータと機械的に対立するのでなく、コンピュータ計算の帰結に柔軟に対応しながら現実を編み直し続ける生命体であれ、というのが本書の結論的命題
計算によって認識は更新される。この事実は変わらない。
計算と生命の雑種として我々はどう知性を働かせるか、どう生きるか。