中先代の乱
逃げ上手の若君
承久の乱
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争い
律令国家成立以前に奈良盆地を本拠とした有力な政治勢力およびその政治組織。 大和時代(古墳時代)の政府・政権。「ヤマト王権」。
飛鳥時代または古墳時代後半の天子(天皇)を中心とする官僚制をともなった中央集権的な政府・政権。 古墳〜飛鳥。律令国家化まで
律令国家:中国の刑罰や法律取り入れて統治国家を作る
律令の中に公卿(ex. 藤原家)等の定めもあった。公卿から名を上げる 気になるポイント:日本全土を統治していた?王を名乗り上げるものは他には?
そもそも小国がたくさんあって争ってた→邪馬台国を中心にまとまる
地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する大伴、物部、阿部などの畿内氏族とが強い結びつきをもつようになったものと想定される 繋がりがあれば利権や権力が生まれる。そこから国を司る仕組みが整えられていった。国を司る = 政治。つまり武家政権と vs する朝廷はココが起源?
「天皇」の称号が使われる以前、日本の君主は「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスメラギ、スベラギ、スベロギ)」と呼ばれていた
諸説はあろうが
持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、後深草上皇を始祖とする。のちの北朝を経て、現在の皇室に連なる。
関和彦は、「朝廷」は「天皇の政治の場」であり、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向けの書物のなかで、磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、武烈朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として「大和朝廷」の語は継体天皇以後に限って用いるべきと説明している
朝廷:天皇や大王を中心とする中央集権的な政府及び政権(政治的特権 = 国の統治が当時は貴族の条件?)
武家政権:鎌倉、室町、織豊、江戸
地方で起こった反乱の鎮圧の過程で中央から派遣され、勲功をあげた国家・王権の中下級官人らが中世武士となっていくと理解されるようになった
両者が衝突し、武家が勝ったのが承久の乱。武家が政治の実権を握った状態へ
朝廷の権力は幕府により制限され、六波羅探題によって監視を受け、そして皇位継承にも影響力を及ぼされるようになった ’’奉じた’’とはどういう意味ですか?
答え
成良親王とは後醍醐天皇の子です。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は彼を足利直義(尊氏の弟)に守らせて鎌倉に派遣し、「鎌倉将軍府」と云う組織を鎌倉に置きます。「奉ずる」とは組織のトップに戴くと云う意味です。鎌倉将軍府の実際の政治は足利直義が行ったのですが、この組織が後醍醐天皇のものであることを示すために、子である成良親王をもってきたわけです。