マルクス主義と「作者」
マルクス主義は今までの人間社会の発展の歴史について下記のように捉えた
「物」の生産の支配を社会のどの階級が掌握するかをめぐる階級闘争の歴史であったと捉え当時の(19世紀の)社会をブルジョア階級(近代的資本家階級)とプロレタリア階級(近代賃金労働者階級)の対立、闘争の場と考える ブルジョア階級:賃金労働者の雇用者
プロレタリア階級:生産手段を持たないので労働力を売ることを強いられる
まさに資本主義の形
社会をどう見るか?の視点を提示。色々な切り口がある中で「階級闘争の切り口」から当時の社会を見た
『共産党宣言』は、諸国家のプロレタリア階級がブルジョア階級を倒し、生産の支配権を握るために、国境を越えて団結しようと呼びかけるものである。共産党とは、諸国家のプロレタリア党の闘争を支援し、プロレタリア階級の利益を代表する国籍を超えた集団であり、その理論は私有財産の廃止に要約できる。現代風の言葉を使えば、『共産党宣言』はまさにグローバルな聴衆に、グローバルな革命を呼びかけているのである 物を生産するための下部構造 = 基礎 = 経済、上部構造 = 文化。社会は下部構造への欲望が満たされると上部構造を持ち始める。イデオロギーや政治、宗教、神話...そして文学
上部構造は下部構造によって決定される
なので、例えば物の生産が世界的なもの(グローバル経済)になれば上部構造である文化、分かりやすい例で言えば文学も世界主義的なものになる
生産と消費が「世界主義的」になると同時に、文学も一つの世界文学になっていくという展望は、まさに文学が上部構造の一部であるから起こることである。基礎にある「物」の動きに乗って上部構造の文学も同じものが世界に広がるのである
文学ほど言語に依存しないですむ、映画、ポップ音楽、ファッションなどの大衆文化としての上部構造にはグローバル化がはっきり見られる。米国発信のグローバル経済が「それ自身の姿に型どって世界を創造」しているのである
今のグローバルヒットチャート
なぜ文学をマルクス主義は重要視したのか?
文学が彼らの関心を引いた理由は、文学が言葉の意味機能を使って想像の産物である意味を伝達する力、端的に言えば、そのイデオロギー生産力であったはずだ。文学のこの力こそ、古今の政治的支配者たちが怖れたものであり、マルクス主義文学理論が常に注目した論点であった
イデオロギー生産力
小説はエンターテイメントとかでしか捉えられていないけれど、この意味伝達力的な側面は確かにその通りだなと思った。この面に意識的になることで、マルクス主義文学という言葉の意味がわかってくる。つまり、エンターテイメントがどうとか内容がどうとかではなく、イデオロギー的にプロレタリア革命を啓蒙する側面に立っているものを指している レーニンの後を継いだスターリン
「基礎」である経済体制だけでなく、国民の日常生活をふくめた文化全般、すなわち「上部構造」のすべてを彼独特の社会主義に合うように統制していった。宗教の排除、教育の統制などはもちろんのことであるが、スターリンが最も厳しく統制したのは文学だった。ソ連の安寧を脅かす者として彼が最も恐れた人間は、チャーチルでもルーズベルトでもなく、自国の文学者であったことは興味深い。彼はあの薄っぺらの一冊の本─『共産党宣言』─が、国家の体制を転覆する力を持っていることを身をもって知っていた。言葉の力を知っていたのである。だから文学によって国民が望ましくない影響を受けることがないようにしなければならなかったし、文学の力は積極的に社会主義体制の維持、強化のために利用されるべきであった
ポストモダン時代になって特に、ベンヤミンの芸術論として恐らく最もよく言及されるものは、「複製技術時代の芸術」(1936)であろう。これは資本主義時代における芸術をマルクス主義がどうとらえるかを一般的に提示している点からも、重要な論文である。 ベンヤミンは「序論」において、まずマルクスの「下部構造」(基礎)と「上部構造」の理論を確認して、この時代を次のように特徴づける─「下部構造の変革よりもはるかに緩慢に進行する上部構造の変革は、すべての文化的領域における生産条件の変化を認めさせるまでに、半世紀以上を要した」(9)5)と。つまり経済という下部構造の変化に呼応する上部構造である文化の変化は半世紀遅れて、今、起こっていると、ベンヤミンは見るのである。その文化上の変化とは、芸術作品が複製技術によって再生産されるという状況になったことである。この場合、複製技術とは、昔から行われていた型や版を取ることによるものではなく、写真およびトーキー映画であって、これによって、従来の芸術と現在の芸術はどう変わったかをベンヤミンは以下のように見る。従来の芸術は「いま」「ここに」という時間的空間的制約による、唯一の、「ほんもの」であるというアウラがあった。それは「ほんもの」には儀式性があったからであり、その儀式性が複製技術の出現によってどう変容したかを、ベンヤミンは次のように説明している 複製技術ダメ!といっていない。アウラがなくなるのダメ!ともいっていない。政治が宿る危険性と可能性を考えた
複製技術 = 資本主義の落とし子。芸術から「ほんもの」というブルジョア的アウラを取り除き、民衆が平等に取得可能なものとしてしまった
その上で、芸術が儀式という機能を失った現在、政治的機能を持つとした。政治性を帯びたとした
「今、ここ」を超えてイデオロギーを帯びさせることができる、扇動することができる
ファシズムに利用されるのは危険だが共産主義がこの力を使って啓蒙するのは可能性があると考えた
ファシズムと共産主義の違いとは?
ファシズムも共産主義もともに全体主義であることに変わりはないが、ベンヤミンはファシズムを「所有関係はそのままにして、プロレタリア大衆を組織しようとする」(44)としている。これは具体的に言えば、大集会や祝祭における大衆行動によって大衆に自己表現の機会を与えて、美化された大衆の姿を映像によって広め、さらにその大衆を統率する指導者(たとえばヒットラー、ムッソリーニ)に最高の美的幻想─あの失われたアウラ─を醸し出すことによって彼のおもいのままに大衆を政治的にコントロールすることである サルトル
まず、サルトルの作者論に入る前に、彼の哲学のどのような面が彼独特の作者論を生み出していくかを考えよう。彼は他の実存主義者の多くと同じように、人間存在を何の目的もなくこの世に「遺棄された」、すなわち「不条理」で「偶然的」なものと考える。ただしサルトルによれば、人間は自分がそのような存在であることを意識している存在─ “l’être-pour-soi”─であって、それを意識しない、たとえば机のような存在─ “l’être-en-soi”─とは違う。この、不条理と偶然性を意識する人間は、常に無(死)となる可能性を理解し不安を掻き立てられている存在であり、この不安こそが人間存在の状況なのである。だが人間は意識することによって人生における選択をする(あるいは選択しないことを選択する)自由をもった存在でもある。そして人間はその選択によって自らが意識するところのものになるのである─「我々は我々が考えたものの結果である」とサルトルは言う。たとえば、毎日工場のベルトコンベヤーを前に同じ単純作業をしている工員が、毎日曜日の午後のみ郊外へ行って風景画を描いているとする。彼にとって工場の作業は、一週にたった数時間の絵を描くために衣食住を満たすための資金を得るためである。そのような彼は、自分は画家であると意識し、工場での労働はそのための手段である、と意識している。ゆえに彼は画家である。このように人間は意識によって自分をつくる自由をもっている、とサルトルは言う。サルトルの実存主義思想が正統的マルクス主義と異なる一つの点は、これである。
マルクスは意識が存在の型を決定するのではなく社会的存在の型がその意識を決定するといったが、その逆説的主張
基本的には上部構造は下部構造によって決定されるという上述の話
なんだか、わかったようなわからないような説明であって、恐らくこれを読んだだけでは全く唯物史観について理解できないだろう。概してマルクス系の学者や論文は同じような難解な単語が繰り返し登場し、一文節が極めて長い。文章を追うだけ、話を聞くだけでも辟易する場合が多く、それがまたマルクス思想そのものを取っつきにくくしている
世界を進歩させるのは、絶対精神のような観念ではなく物質なのだと述べた
つまり、歴史すなわち世界はモノの生産の下部構造によって遷移するという考え
生産力が変化すれば生産諸関係が変化し、それが歴史を動かす原動力となるのだ、と。
絶対精神のような理念が歴史を動かすのではなく、歴史を動かすのは具体的な生産力だ、という思想をマルクスは確立したのです。
唯物史観(ゆいぶつしかん)の誕生です。
強者となった人間が弱者となった人間を奴隷として酷使する奴隷制社会が、最初にあった。
主人と奴隷がいるだけの単純な社会です。
その次に封建制社会に移ります。
君主がいて地方領主がいて、さらに農奴がいて奴隷もいる社会です。
産業革命によって社会の規模が拡大し人口も増加し、生産力も急上昇します。
そこで封建制から資本主義の段階に進み、次に社会主義から共産主義へと歴史は進む。マルクスはそのように考えて、唯物史観を構築しました
モノの生産の考え方に立つと次には共産主義に進むという考え方。なので、資本主義を打倒し歴史的後継者である社会主義、共産主義に進むという考え方
唯物と聞くとマルクスの無神論にも結びついてしまうけど、無神論の話はあくまで「革命を阻害するからアヘン」の意味 宗教はアヘンである
なので、唯物史観はその名の通り歴史観。モノの生産「のみ」で歴史は説明つく。今の資本主義の次は社会主義、共産主義