構造的同調圧力
どのように名前をつけていいかわからないので、とりあえず構造的同調圧力と読んでおくものがある。
ここで構造的同調圧力とは、
ある同調すべきと考えられている概念に対して、そこにいる誰もそれに関する強い意志と理由をもってないにもかかわらず、他人(と自身)にその概念への同調を迫る社会構造
ととりあえず定義する。この他人(と自身)がなんとなく重要な気がする。
簡単に言うと”そういうものだから”という同調圧力のことである。
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これはホモソーシャルの話である。
あの性風俗に行ったとか、あそこのあの娘がかわいいだとかそう言う話を男同士でするのが苦手だった。しかし、なぜ苦手だと思うのかわからなかった。興味がないから、というほどには全く興味がないということでもなかったので。これも構造的同調圧力、男同士で集まったらなんとなくこう言う話をした方がいいのだろうと言う状態が嫌だったのだと思う。そこに誰もがそういう話を話したいと言う主体性がないにもかかわらず、話している。
実際のところ高校の時とかは苦手であったにもかかわらず私もそう言う話をしていた気がする。そして構造的同調圧力に自分も加担していた気がする。
しかし、こう言う話をしないとなると、どのくらい私たちのコミュニケーションは減るのだろう。そういうものだから、と言うのはある意味では最適化なのだ。全員に少なからず通じるコミュニケーションみたいなものの集合体だとおもうので、これをなくすとみんなに共通点のある気軽な話はどのようなものになるのだろう。
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別の話。
先日Zoomを介して結婚披露宴に参加した。この時私は大変最高な事実に気づいた。正装(スーツ)である必要がない!そして誰もそれに言及しない、最高! (しかし、私も大人になってので、スーツできてと言われたらスーツでいきます。)
私は、このスーツを着るというようなこと、と言うよりはTPO(時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分け)が大変苦手である。これはスーツがダサいというようなcomputer science側のよくあるちょっとしたかっこよさに関する意見ではなく、若干身体的苦痛、生理的な反応として現れる。(最近は大分感じないようになってきた。自己理解が進んだのか、経験回数を摘んだからなのか)。正装したくなくて大学の卒業式もで出ていないし、成人式からスーツはきていないので六年は着ていない。成人式の時も大変に苦行だったのを覚えている。今思えばボーイスカウトもあの正装がしたくなくてやめた。
この私の感情は社会生活において非常に不便である。と言うのもある時ある場所で決められたものを身に着けると言うのは、社会では”常識”であり、それを逸脱すると、”かっこつけている”だとか”無礼”だとか、そう言うふうに言われる。確かに葬式で喪服とか着ないとかは無礼であるとわかるので、まぁ着るかとなるのだけども、卒業式とかいまいち理解がでいない。理解するべきなのだとわかっていても、真に理解できることができない。この感情はどういう時に起こるのだろうか?と言うのは前から疑問に思っていた。
つまり、私はなぜそういう服を着たくないのだろう?というのがわからずにいた。いや今も実際には完全には理解していないのだが、その一つに構造的同調圧力があるのだろうと思う。結婚式にしても卒業式にしても、ハロウィンにしても誕生日パーティーにしても何にしても、誰もそれに正装でいかなければいけない理由を私に説明してくれていない。で、私は正装することが嫌いなのではなく、その説明の無さ、正装への主体的な理由の無さが辛さの一つの原因なのではないかと言う気がしてきた。
結婚式はスーツでしょと言う感じはなぜなのだ。いや確かに正装する必要がある気がするのは私にもわかる。しかし、誰もそれを結婚式前に伝えてくれない。みんな”そういうものだから”という。どういうものなのだ。
たしかになんでもいいですよってなんていって、みんなパンクロッカーみたいな格好でこられたら困るかもしれない。参加する人間はその空間のあくまで一部としての役割なので、統一感が必要なのだろうから。でもそれを主催者は考えて、この式なのだろうか?、つまりこの式の構成は主催者の主体的な判断から行われているのだろうか?
まぁ実際に式を開くことを自ら全てやると言うのは到底無理で、式を開催してくれるようなサービス会社に頼ることになる。それによってその式のなぜそう言う形式であるかが”そういうもの”に落とし込まれてしまうのだろうと思うのだけど。
じゃあ、主催者にかれこれこう言う理由があって必ずスーツできてくださいと言われたら喜んでスーツをきていくかと言うとそれも違う気がするのでの正装に関してはもっと別の大きな嫌さがある気がする。それはまだ私はわかっていない。
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