【文アル横光】一人称について
前提として覚醒前の「私」発言を見直す
耗弱すると「私」という一人称が時々顔を出す
機械の鋭い先尖がじりじり、私を狙っている
これは単純に『機械』からそのまま引用の部分が大きく思えるが、これが素の一人称の基準になったのかもしれない?kasaya.icon
私は……一体なにを期待したんだ?
耗弱して文学者としての自分が目指したものを見失った?kasaya.icon
複数形の時に「私たち」を使う
イベント回想『夏夜怪綺談』より
ああ、簡潔で怖い。なかなか私の趣向に合った話だった。聞き覚えのあるような話だったのが気になるが……
ところで貴方は何者だ? 八雲さんの姿で私に怪談のようなものを語る……正体をあらわせ
人外と二人きりになると実質「手前」である必要がなくなり「私」と言っているような気も……?kasaya.icon
これは覚醒ノ物語を見るまではよくわからなかったkasaya.icon
この時の複数形は「我々」
覚醒関連の一人称を確認する
覚醒ノ物語内で、特に使い分けがわかりやすい部分を引用する
手前には常に川端がいた。だから私はどんな時も川端を支えると決めたのだ
手前 = 文学者であった、文学者として振舞った自分
私 = 自分
あの頃流行している文学は、私には物足りなかった
文学者になる前の自分
だからこそ手前らは「新感覚派」となり、新たな潮流を作った
だが、その感情は、手前の後に続く者たちも抱いたことだろう
文学者として振舞った自分
手前の後に続く者たちが、力尽きた私の屍を乗り越えようとした
文学者(文学の神様)としての自分
文学する者は、おのれの持った主題を含む題材の意味とともに常にそのときどきに死に、天に昇る象徴の使命を果し、再び地上に下る困苦を繰り返すべきかと思ふ
天の象徴を目指し死んだ文学者は地上に下りただの私となった
……だが、私は再びその道を行く
地上に下ったただの私は再び文学者を目指そうとしている
ああ。手前が『機械』を書いた時に川端が言ってくれたことがあるだろう
『機械』を書いた自分は文学者であった
文学者としての「手前」がそう囁くからだ
文学者としての手前も影で傷ついていた……その清算をせねば
文学者として振舞おうとしていた自分は「手前」を称していた
覚醒後の台詞はちょっと難しい
菊池さんは、あの時とまったく変わらない。手前は見出してもらった恩義にこれからも報いたい
恩義に文学者として報いていきたい
菊池さんが私の作品に因(ちな)んだ松葉酒を置いてくれたようだ
薬効があり、好んで飲む者もいるらしい。手前は、酒は一ト口(ひとくち)ほどしか飲めないがな
『紋章』を書いた自分は文学者だが、同じ菊池さんに関した話でも上記と比重が違い、この台詞の音声は個人的な喜びの方が大きく表現されているため、自分を見出してもらった当時と同じでただの私の気分になっていそうkasaya.icon
横光利一は『文学の神様』を期待されてその振る舞いを自ら演じていたような節があったように見えるので、作っていない自分が出て来ちゃうこともあるかもkasaya.icon
文学者としての横光利一を調べると「ビールは酔うものですなあ」という発言を弄られていたような形跡があるため、酒の耐性については手前と言うのは妥当に思えるkasaya.icon
私が貴様をつまびらいてやろう!
作品を発表する自分は文学者の手前だが、小説を書いている最中の自分は地から天を目指す私である?kasaya.icon
横光利一が語った四人称を積極的に活かそうとした試みを感じる
自分を見る自分
『手前』を見ている『私』
『手前』は『私』を見ていない気もする
私という自分の手前からの視点が手前なのかも
言葉遊びみたいな……
手前はお茶の点前由来の一人称チョイスじゃなくてカメラのある位置を意識したかも
カメラアイの小説を書いた
手前はカメラに映る馬車で私はカメラを構える蝿か
手前が地に落ちる(耗弱)と私が残る覚醒前
純粋小説論
傀儡を造る