20231222 新感覚派(文アル)
https://gyazo.com/5676aaf16ce7e7eec8929fb2c7a78ebd
https://gyazo.com/3a54348d1a5a36d89a55e1835109fa98
元ネタ
文アル新感覚派には転生文豪ライフをエンジョイしていてほしいと思って、ひたすらハッピーな感じのを描くはずだったのだけど、描いている最中に色々読んだら心が色々になったkasaya.icon
1枚目について
1枚目はかわばた先生メインでイメージ
川端氏は『しぐれ』を書いたのち、登場人物が手のスケッチから友人の手を思い出すシーンの「友人」とは横光氏ではないかと言う指摘を受けた。自分はそんなつもりはなかったけど、実際にデューラーの手のスケッチと机の上のロダンの手から、生前の横光氏の手を思い出せたそうな
複数の横光作品集的な本の解説枠として添えられているもので、いわゆる「天の象徴」の見出しで知られた文章
なんとなく、川端氏は美しいものに対して光芒って書いているのをちょいちょい見た気がするので光らせることにした(安直&曖昧)kasaya.icon
当時を正確に記憶出来ないことにより美しさが完成してしまうような表現を、川端氏が繰り返しているのを見て、それは、今を生きているという感じがするなと思ったので覚醒の姿で描いたkasaya.icon
『十六歳の日記』より
私は忘れられた過去の誠實な氣持に對面した。しかし、この祖父の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜くかつた。私の記憶は十年間祖父の姿を清らかに洗ひ續けてゐたのだつた。
『散りぬるを』より
忘れるにまかせるといふことが、結局最も美しく思ひ出すといふことなんだな。
2枚目について
2枚目はよこみつ先生がメインなイメージ
『控へ目な感想(一)』より
生前、芥川龍之介を惡罵したものは、常に云つた。
「何と云ふ氣取屋だ」と。
しかし、氣取らずして生き得られた者は、狂人以外に曾てあつたか。
生活とは氣取りである。自殺は氣取りを征服した瞬間に於て始まるのだ。藝術者は何人と雖も絶えず見えざる敵と闘争し續けてゐるにちがひない。見えざる敵とは、自殺である。氣取りとは、自殺に対する反抗である。
横光氏はあえて険しい道を選ぶ人だなあと思う。でも、川端氏は『新文章講座』で、そんな横光氏のことを
つねに結實の福を待つ人ではなくて、先に自ら苦しむ人であつた。豫知し試み、獨り苦しむ氏の價値が全く理念に逢ふまでには、更に多くの星霜が要求されるであらう。あるひは永久に全き理念には逢はないかも知れぬ。が、さうした理念の崖に、つねに氏は微笑して立つ。
と書いているので、川端氏はそんな姿に理解があるんだなあウウッとなり、ふたりともわずかにほほえみを感じる口元にしましたkasaya.icon
Reposting without permission is prohibited.