[エッセイ]街の色
落書きやグラフィティの描き手は書ける場所を探し選んでやっている。その選べる範囲は街によって異なってくる。関西の場合、営業している店のガラスやモニュメントには描かれない。もしかすると消されるのが早いだけなのかも知れないが。海外だと大胆にやってしまっている。僕の身近ではもともと書いてある文字に紛れるように描かれることも多い。自動販売機のメーカーの文字と同じ色で描いたり、灰色の壁面に銀色で描いたり、擬態するように描かれる。
描き方や場所選びはそこにいつまで残るかにも関係してくる。というか残ったものしか僕達が目にすることはできない。
京都は景観条例があるので所有者であっても壁面へ描くことに規制があり大阪はもう少し緩やかな印象である。依頼されて描かれているところも散見される。
最近はライターの活動が活発化しているような気がする。コロナ禍で消えていた場所にもグラフィティが戻ってきている。
路上における園芸の範囲は曖昧で主張的なものもあればただ園芸しているものもある。
車がぶつからないように目印として置かれているもの、車が止めにくいようにパイロンの代わりに置かれているもの、かつては植物が生えていたのに灰皿と化しているもの、ここは車が入れませんと主張するかのように道路の真ん中に鎮座する鉢の列。
行政の境目が曖昧な直線で引かれるように、法規遵守ではない形があるように境目は曖昧になっていく。川沿いの街路がどこの行政区分なのかは調べると面白い。道の真ん中で市と私の境界が引かれている場所もある。
自分の敷地の外側に展開される園芸は平和な証拠かもしれないという側面もある。もちろんそこにある園芸に何らかの害を加える人がいることは張り紙からうかがい知れる。でも園芸にとって致命的なことは起こっていない場所であることもうかがい知れる。
申し訳程度に台車に載せられている鉢や、いろんなものを流用して下駄をはかされた鉢植え、見せびらかしのように綺麗なお庭になっている壁面、放置されて大きくなりすぎ鉢をわっている木、明らかに街路樹ではない木、植えられたのかタネを吐かれたのかわからない街路にできたスイカ、引越しで置いていかれたのであろう鉢植え、主人がいなくなって枯れ果てた鉢、台座だけが残った場所、色々なフィギィアが置かれた鉢、 鉢の中に鉢を入れたり、 様々な営みが見えて面白い。
同じ路上にあってことなる文脈の二つの事。
そこにはその街の境界と許容が浮き彫りになっている気がする。
今村達紀