[エッセイ]花脊の牛についての2つのインタビュー
早速その週末2023年6月10日、朝一番最初のバスに乗り花脊に9時過ぎに着き、90歳の女性Sさんに話を聞いてみることにした。Sさんは花脊で見かけると挨拶をして話をする。Sさんに農耕牛の話を聞きたいと伝えると、自分の話では不十分だから、兄がいるのでそちらに聞きに行くように促される。Sさんとは10年以上知り合いであるが、兄がいることを初めて知った。言うなれば牛が導いてくれたご縁である。Sさんは同じ集落にいる93歳の兄Kさんの家に電話をしてくれ、兄はこの時間は畑に出ているはずであるから、訪ねて行って話を聞きに行ってくれば良いと段取りをつけてくれる。 しかしその前に、Sさんからもお話を少しばかり伺った。
牛への雑感についてかわいいかどうか聞いてみたところ、Sさんによると、牛はかわいいということはなく、牛は百姓の仕事に使わないといけないので、飼っていたということだった。ここでも牛のご飯の話題が真っ先に挙がる。ご飯食べさせる必要があり、ほっとくわけにはいかないので、雨降りでも草刈りに外出て、毎日食べるものを4束から5束ほど(1束=10把)を毎日用意して食べさせたそうだ。それから藁も食べさせた。毎日草刈りに行くのは、自分のところの田んぼである。それから、カブ草と呼ばれる草があり、山などへそういうものを刈りに行ったこともある。みんな背中に背負って帰ってくるので、結構大変だったという。
冬も牛は餌を食べさせないといけない。干し草は、梅雨が終わって雨が降らない土用になったら草刈り、その草を干してカラカラにしてから、建物の上にあげておき、藁と混ぜて、牛にやる。
牛には犂(カラスキ)という先がとんがった農機具をつけて、それを牛に引っ張らせて田を起こす。牛が畑で活躍するのは、春の田を起こす時だけで1年のうちで短いが、牛はずっと食べさせなければならないのが大変。だが、その食べた分の糞をする。牛の糞をミツマタで集めて肥料にして、畑に入れたりもした。牛がいる小屋も放っておくとしなってくるので、牛がかわいそうなので、また藁やらほりこんでふわっとさせたりもした。
牛が死んだらどうするのか尋ねたところ、一度死んだ牛は山へ持っていき、焼いたことがあるが、お墓を作ったりすることはなかったと言う。
耕運機への切り替えはすんなりと移行したかといえば、買えるところは買えるし、買えないところは買えないし、事情は様々だった。牛と比べると耕運機の方が楽だった。
以上のような話をSさんから聞く。この時点では、私も牛についての知識があまりないために、全てが新鮮な牛の記憶の話だった。農耕牛との暮らし、ぬか、草探し、糞が肥料になること。次のKさんに別視点からのお話を聞くことで、事の詳細がわかり、辻褄が合い、合点が行くことも多く発生したので、引き続きKさんのお話について紹介する。
家に行ってみるとKさんは家の裏の畑で作業をしていた。声がして中にいたKさんの妻も出てきてくれた。軒先に長椅子があり、三人で座ってお二人の花脊での生活のお話を聞きつつ、途中からKさんに牛を中心にした花脊の話を聞く。
Kさんの家では牛を飼う前は馬を飼っていた。明治の終わり頃から大正くらいの話になる。その頃の話をKさんは馬は自分で経験はしていないが、よく話を聞いた。曾祖母さんの時代で、Kさんの家だけが馬を飼っていたのではなく、この集落全体がその時期は馬だった。
馬は主に鞍馬にある得意先の元へ炭焼きを運ぶために使っていた。4〜5kgくらいの重さの炭を、左右に二つずつける。全体で20〜30kgぐらいになる。花脊は山間部の集落で、道路が整備されたのが昭和九年となる。昔は人が歩くだけの道があった。山を越えて峠を下ったら百井別れがあり、その裏のところは酷い道だったので、馬は鉄を足の裏に打っているので、その鉄が滑るんために、滑らさんように上手に歩かせた。鞍馬に着いたら得意先に荷物を下ろし、鞍馬には鞍馬で荷物があるからそれをまた馬に乗せて帰って来る。1日1回、よく働く人で1日2回往復した。花脊から鞍馬までは8里、つまり10キロほどある。炭運びの仕事は主に女性の仕事とされていた。 馬は牛と食べるものが異なり、馬は飼い葉に豆のカスや藁、市販のトウモロコシの粉にしたものを混ぜてやった。馬は畑は耕さず、田んぼだけ耕していた。馬は腰が強く、足は長い。
馬と牛が一緒にいたことはない。どちらかだけがいた。牛と馬は別々の小屋を作らなければならないが、家にそれだけのゆとりがないので、一旦馬を売り払って、それから牛に切り替える必要がある。花脊の道がだんだん良くなってきて、便利が良くなってきたら、馬の方が餌の関係で飼いにくいので牛だけになった。
牛舎は3坪ほどだ。農耕牛で田んぼを耕す時には、牛に鋤(スキ)という田を起こすものがあり、それで鋤かし、耕す。牛は同じ田に3回入れて耕す。今は全部機械があるので、個人的に都合のいい時に植えれるけれど、昔は3軒が1組になって、来てもらったらまた行って、そういう手間返しをして、百姓の生活を守っていた。人情があったとも言える。
牛は年がら年中食べ物の世話をしなければならないし、糞もするし、じっとしていない。牛は小屋で糞を足で踏んだりするので、山笹や草や藁を入れて、足元が濡れないように片付ける。牛の糞では肥やしを作る。今は化学肥料で米がよく取れるけれど、肥料がわりに田んぼに入れていた。
牛は田畑を耕すだけで、荷物を運ぶことはなかった。
牛は賢くて、何も言わないけれど、人を見る。牛を使うには、牛にも気を遣う。使いっぱなしでは出来ない。牛にそんなことをしたら、牛は逃げるし、仕事を嫌がるし、牛舎から出なくなる。知らない人だと出て行かない。嫌がると角で突きに来たり、蹴ったりしてくるので、怪我をさせられる。
田んぼもちゃんと鋤き方がわかっている。でたらめには起こさない。
これらはKさんに伺った話の中の、農耕牛を中心とした生活史である。どれもやはり初めて聞く話が多く、また詳細である。そしていくつか、あらかじめあった疑問についても質問をした。
《牛を飼っていた家と、借りていた家があったと聞いたことについて》
人が田を起こすのは大変な重労働なので、牛を持っていない人は持っている人に牛を借りるし、Kさんも田が少ないところに牛を貸した。田んぼに牛をかしてもらえないかと言われると、牛が空いている時なら貸す。その代わり、自分のところの田植えにも手伝いに来てくれないかとか、硬い土を砕くのを手伝うのに来てもらえないか、とか自分のところにも来てもらって、自分の田を耕してもらい、手間返しをしてもらったりする。牛を貸してと言われ、嫌とは言えない。気持ちよく貸し借りをした。
《Kさんが牛を貸すお家にも、牛を住まわせる仮住まいの部屋ってありましたか?》
ある。田1枚でもある。牛を飼っている人が牛を飼っていない人の牛小屋を借りることもある。牛を飼っていると牛舎から堆肥を田に出す作業があり、その時牛小屋を空にしないといけないが、1日牛を外につないで放っておくわけにも行かないので、牛を飼ってない家の牛舎に牛を預けた。そこに預けて、堆肥を田んぼ3段なら3段に堆肥が行き渡るように配る作業をするのに、3人から4人で丸1日かかる作業になる。そして牛舎から堆肥を出せたら、また牛を連れ戻してくる。昔はそういうように融通の利く付き合いをして、牛を借りたり、牛舎を借りたり、互いに助け合いをするやり方をしていた。
《牛を機械に変えようかな、っていうのはどういうタイミングなんですか?》
農道具売りという仲介人がいて、そういう業者が回ってきて宣伝に入ってくる。機械を持って来て見せてくれて説明してくれるので、楽でいいなと思って切り替えた。それから町の方に行くと、町の百姓がそういうの使ってるの見たりもするので、そういうのを見てても、こんなのいいな、楽やろうな、こんな機械が欲しいな、と思ったりする。
《牛が亡くなった時はお葬式をしますか?》
お葬式はしない。そんな時はよほどの時で、牛が死んだ時は1回だけ知っていて、村の者で焼いた。家で牛が死ぬと、死んだ牛は誰も買ってくれないし、処分もしてくれないので、もうこの村の者で人情で手伝いにいこうという人だけが来て、山で焼いてしまった。
「死んだ牛を焼いた」という記憶は、直前のSさんも話しており、ここで話が一部繋がったものの、Kさんが言う「牛を買う」という新しい視点が気になった。そして、さらにその話を聞いていくと、それまで予想していなかった展開になった。
私:普通やったら、売るって話ししてたから、牛は亡くなる前に売るのが普通なん?
S:そんなんわからへん。牛かてそんな急に具合悪くなる。亡くなるゆうことがわからん。急に朝見たら倒れてるんやから。
私:じゃあ、耕運機を入れる時は、牛はどうするの?
S:そら耕運機を入れるまでは牛飼うとる。耕運機が手に入ったら、そういう仲介人、バクロウゆうて。
私:バクロウ?
S:そう、昔は博労ゆうてな。仲介しとる兵庫県の但馬とか、丹波とか。但馬ゆうたら有名なとこや。今でもそうや。牛肉したり、牛飼うとるところや。あるやろ。 私:あるある。
S:昔はそういうところから、牛を持って出てくるんや。牛はこっちでもうずっと飼うとるやろ。田の間は牛ちょっと痩せとる。田終わったら、牛は楽しすぎて肥えるわな。こっちも牛を肥やそうと思って、ゴケやったりするわな。
私:ゴケって何?
S:ご馳走。また但馬から博労が牛を追うてくるんや。昔は皆歩いて来たり、時代がもうちょっと最近やと京都まで自動車で乗せて来とるけど、昔はまあそんなことはないわ。ずーっと歩いて仲介人が牛3頭ほど連れて。仲介人は知っとる。田植えのえらい時済んどるし、よう肥えとるやろとか。こっちも金にしよう思って一生懸命に飼うわな。仲介人に牛を交換するとなんぼかもらえて金になるし。牛を交換して金もろて、追い金ゆうて、今まで飼うとった牛を離す。
私:そうなんや。じゃあ、ずっと同じ牛を飼うわけじゃなくて、何回か交換してるんや。
S:そう、3年。田をするまでの教育を但馬でさしてから、こっちに連れてくるんや。こっちが教えるんとちゃう。牛が田植えを初めてこっちでするんやったら、遊んでしまいやけど、もう教育せんでええねん。ちゃんと教えてる牛をこっちに連れてくるねん。
私:そういう仕組みなんや。
S:博労はしょっちゅう来とる。博労はこの村をよう知っとる。ああ、もう入れてから3年経ってるから、牛はよう肥えとるやろな、とか、あそこまた牛を変えてもらおうとか。博労の人は決まっとるんや。但馬の博労は自分しかこの村に入ってこないし、牛飼うとるところが30軒あったら、30軒とも自分が連れて来た牛やし、どこの牛がどういう性格の牛か博労は知っとる。たくさん田んぼ作ってる家は、雄牛の方が強いから雄牛を飼うわな。そやけど雄牛は気が荒いからよう使わん者もおるわな。怖いさけ。
Sさんの話から、今回の農耕牛の調査のハイライトの一つが突然に、早々にやってくることになった。京都の花脊と兵庫県の但馬が繋がったのだ。 葬式をしない牛、なかなか死なない牛、最期の描写がない牛。それから、だいたい牛は1頭だけ飼っていると言う話が多かったから、自分の家で牛を生み育てているわけではなさそうな点、どこかから連れてくる可能性にもっと早く気がついても良かった。
当初今回の調査では、牛についての人々の記憶という生活史の収集をするつもりだったけれど、唐突に、早急に「博労」という農耕牛の仲介人による社会システムがあったことに行き着く。
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野咲タラ