[エッセイ]直接性について
田植えに臨むにあたり、長靴を買った。
丈がしっかりあって、口をきゅっと絞ることができる長靴を。
でも、ちっとも役に立たなかった。
田んぼに長靴で踏み入ると、泥の中にずぶずぶ沈み、そして、てこでも動かなくなった。
泥は、沈むときはやわやわとしているのに、一度、甲のあたりまでを覆ってしまうとぎしぎしと埋めにかかる。
こりゃだめだ。田んぼの中で長靴から脱出した。
さっきまでゴム越しだった泥とはだしがからみあい、すねまで浸かる。足のゆびとゆびのあいだぜんぶが泥を感知する。
長靴をなんとか引っこ抜いて田んぼのへりに逃がし、はだしで植えはじめた。
(ちなみに、植え方を教えてくださった方の長靴を見たら、足袋みたいに指先が割れていた。なるほど、
それなら泥にうまく力が伝わって、泥から引き抜きやすい!)
束から苗を三本ずつ取っていくのに手こずるけれども、植えること自体はシンプルでむずかしくない。
一緒に並んで作業しているひとと、自然とコミュニケーションが生まれる。リズムが生まれると作業がノッてくる。
いや、むしろノッていかないと単調さがきつくなってくるんじゃないか。
田植歌がどうして生まれるかがわかった。ここに歌が必要なのだ。
泥のなかに苗と指を沈めながら、この苗が育って、お米になって、
dot architectsのみなさんと一緒に食べているところを思い浮かべた。
じぶんの足と手と、食べるひとの顔が、あるいは自分の腹が、じかにつながっている。
植え終えて、用水路で足をざぶざぶ洗った。
お米や玉ねぎやスナップえんどう、たくさんのお土産をいただき、ぎっしりのリュックを抱えながらJRに揺られて帰った。
足を踏みなおすたびに指の股を通り抜けていったあの泥を思い出す度に、考える。
じぶんの、食うという営みが、いかに間接性に取り囲まれていることか。
(そしておそらく、演劇は、間接性によってのみ成り立っているんではないだろうか?)
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2022/6/7