[エッセイ]牛がいた頃・まとめ
農耕牛は田畑を耕すだけの半ば特別な牛だと思い、調べはじめたところがあった。それが実は役肉兼用だった。そしてさらに、ある部落史の中に博労の文字を見つけた時につながった。日本のと畜には差別の問題が関わってくる。
農耕牛の調査ではと畜をめぐる日本での差別の歴史について並行して考えていた。ちなみに、と殺は殺す意味の言葉が二回重なり差別を強調するし、野生動物ではなく家畜を殺生するという意味ではこちらの方がわかりやすく、と畜という言葉を用いる。
日本人は動物の殺生への忌避感が強い。それは古くは仏教国家であった歴史的背景なども理由に挙げられるけれど、かなり複合的な理由だ。江戸時代まで日本では狩猟で野生動物を殺生して肉を食べることは認められていたが、家畜を殺生して食べることは禁じられていた。明治時代に開国してから西洋文化が入り、また外国人からの要請もあり食肉が解禁された。動物の殺生や肉食が差別を生むというのは理解が不十分で、皮のなめしの技術は戦争で使う武具になり、日本の差別構造の構築に関わる。江戸時代の身分制度は差別を固定した。明治時代になって四民平等が謳われるようになっても、日本の中に差別の意識は残った。動物の皮が武具になる話を初めて教えてもらったのは、世界中で狩猟をする人からだ。のちに別の調査で和太鼓に張ったなめした牛の皮の余りを触らせてもらうと、本当に軽くて、そして硬くて驚いた。
元と場で牛の解体する場面の映像を見せてもらい、解体した動物から湯気が立ち上っていたことにも驚く。動物を殺生して肉にすることについて、これまで私は散々肉を食べておきながら、自分が何も知らなかったことに気付く。いや、お肉は動物だということは知っていたけれど、湯気という想像を超えたものに触れ、それが急に迫ってきた。冬の季節は時期よく狩猟期で、鹿の解体を体験させてもらった。動物の殺生が差別と繋がることになるのか、それも不思議だった。狩猟とと畜における動物の殺生は異なるという意見もあるが、少なくとも全ての狩猟者の意見ではない。狩猟とと畜で殺生をするのはそもそも野生動物と家畜ということからしても、日本の歴史からしても、異なる方法の動物の殺生である点は承知している。ヨーロッパでは動物の殺生には罪の意識がないとも聞いた。文化や宗教、国や地域によってと畜や狩猟の捉え方や考え方は異なる。
調査のはじめの時期に差別について考えていた時、「君たちはどう生きるか」という映画を観た。映画には「彼らは殺生は出来ない。殺すのは俺の仕事さ」という台詞があり、これは日本でのと畜の社会構造を端的に表すように思った。と畜は誇りを持つべき仕事、と以前は思っていたけれど、過剰に持ち上げることでもなく、他の多くと同じ仕事であることを知るべきだ、という意見を知った。映画でも子どもが動物の解体をしていたが、私も狩猟体験で子どもたちと一緒に鹿をお肉にする体験をした今は、そちらの考え方に賛同する。しかし、どんな仕事でも熟練の技術には私は敬意を払いたい。誰にでもできることと、技術を磨くのは別の話だ。それも狩猟体験をしたからこそ思う。
映画には、わらわらという架空の生き物が出てくる。ペリカンはそれを食べて攻撃される。ペリカンは勝手にこの世界に連れてこられたと主張する。中世、近世にヨーロッパによって船で連れてこられた奴隷の人々への暴力を重ねてしまう。人間の歴史において奴隷にされた人々によって多くの嗜好品が作られた。砂糖、タバコ、茶。缶詰はフランスのナポレオンが戦地で食べられるために作られた。日本で牛肉食が広まったのは、日清日露戦争において缶詰の牛肉の大和煮が人気になったことが大きい。同時にこの頃、日本で農耕牛の畜力による農耕が普及する。増殖した大量のインコは近代化を迎えた国家の急増する人口のようで、インコたちは盛んに料理をする。食糧生産や食糧の確保は、第一次世界大戦後、第二次世界大戦へと向かう近代国家の主要な政策の一つだった。さらに日中戦争がはじまると、馬が軍馬として徴用され、男性が軍隊に取られ、農村に残った女性が扱いやすい小型でおとなしい農耕牛がさらに普及した。
人間の歴史は食の歴史でもあり、食の歴史には社会構造や階級構造の不平等や戦争といった負の歴史がつきまとう。
関西という場所を紹介するリサーチ企画で、どんな場所があるかを紹介しようと取り組んでいたところ、牛を巡る差別の問題でそこがどこかを紹介してはいけない場所があることを知る。「寝た子を起こす」という言葉のその後に続くのは「だから、起こさないように黙っておいた方がいい」または「それでもきちんと明言した方がいい」自分で理解を深めないといけない問題ではあるが、一人で解決する問題ではない。調べていくうちにさらにそれが深まる。過去から今日に地続きに存在する人権侵害とその歴史的背景をきちんと理解することの重要性を強く感じる。
現代においてもうすでに無くなったものを調べる意義とは何か。歴史の調査にその視点は常につきまとう。日本の農耕牛についても同様である。
現在、世界中で最も人権侵害が行われている場所の一つはパレスチナである。長年にわたる植民地状態の末、現在行われている暴力によって、多くの人々が殺されているジェノサイドはどんな理由であれ、すぐに終わらせるべきだと私は思う。
そんな中、パレスチナの使役動物がロバであることを知る。パレスチナで人だけでなく動物も、その暴力に巻き込まれて殺されていることを悲しむ人が教えてくれた。車やガソリンが高価なため、現在でもパレスチナではロバが荷運びに活躍する。農耕牛を調べていただけに、ロバが異国で働いていることに大変親近感が湧く。
かつての日本の農村において牛は畜力となって農耕や荷役を助けただけでなく、蓄財としてお金に代わり保険や金融の役目を持ち、地域の中での相互扶助や貧しい農民たちを助けるための機能を備えていた。日本では車や機械の普及で農耕牛をはじめ使役動物は基本的にはいなくなったが、まだ現在世界中では使役動物がいる地域もあり、それは財力の裕福な地域ではなく、貧しいとされる地域に多い。そういった場所で使役動物たちがさまざまな形で人を助け、ともに暮らしている。それらは各地域の人と動物の生活であり文化だ。人間と家畜の関係性は多様である。
私は端的にジェノサイドで人間が人間を殺すことを非難する。また、その暴力によって動物が巻き込まれることや文化が奪われることを非難する。それは現在において、かつて日本にいた農耕牛の文化を調べた意義の一つだと私は思う。
参考文献
内田あぐり監修『膠を旅する』(国書刊行会、2021年)
川北稔『砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)』(岩波書店 、1996年)
関野吉晴「結末のない旅」雑誌『風の旅人』(ユーラシア旅行社、2005年-2007年)
本橋成一『屠場』(平凡社、2011年)
鎌田慧『ドキュメント 屠場 (岩波新書)』(岩波書店、1998年)
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫、1937年)
篠田正浩『河原者のススメ』
上原善広『日本の路地を旅する』(文春文庫、2012年)
『現代思想2022年6月号 特集=肉食主義を考える』(青土社、2022年)
岡真里『ガザとは何か』(大和書房、2023年)
上原善広『被差別の食卓』(新潮新書、2005年)
鈴木真弥『カーストとは何か』(中公新書、2024年)
「パレスチナの詩アンソロジー 抵抗の声を聴く」『現代詩手帖5月号』(思潮社、2024年)
スナウラ・テイラー著 今津有梨訳『荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放』(洛北出版 、2020年)
一ノ瀬正樹、新島典子編『ヒトと動物の死生学―犬や猫との共生、そして動物倫理』(秋山書店、2011年)
アントニー・J・ノチェッラ二世、コリン・ソルター、ジュディー・K.C・ベントリー編、井上太一訳『動物と戦争: 真の非暴力へ、《軍事―動物産業》複合体に立ち向かう』(新評論 、2015年)
野咲タラ