[エッセイ]徳島の牛についてのインタビューの試行
農耕牛とは具体的にはどんなものなのか。牛と一緒に暮らすというのはどんな感じだろう。それを知るための方法に、牛の記憶を持っている人に直接話を聞くことは、有効な手段の一つになる。人によってさまざまな牛の記憶があるはずで、その記憶にアクセスしたい。
5月後半に徳島に行くことがあり、2023年5月28日日曜日の朝市で牛の話を聞けないものかと試してみることにした。徳島は関西ではないが、記憶を辿るための予習には場所はどこでもいい。朝市には農家さんら生産者がいるはずだ。日曜日の早朝から徳島駅前からバスに乗り、7時頃に朝市に到着した。すでに会場は賑わっており、そこで徳島で取れたたくさんの美味しいものや珍しいものを見付けたり買ったりしながら散策しているうちに、野菜を売っている農家のご夫婦とその手伝いをしている女性がいるお店に行き着いた。空豆を買う時に会話をしながら、この人たちなら話を聞かせてくれるかもしれないと思い、農耕牛の思い出話を聞きたいと申し出た。すると、ご夫婦は阿波弁混じりで、牛がいた頃の話を次々と聞かせてくれた。 70年前、80歳の女性が10歳くらいの時には家には農耕牛がいたそうだ。子どもだった女性は牛のご飯を作る係で、藁を10センチくらいに刻み、それにぬかを混ぜて、牛にやっていたという。家にいた牛は1頭だった。今は機械で1反300坪耕すにも半時間や1時間で可能なところ、牛は能率が悪く、1反を耕すのに1日くらい掛かって、なかなか終わらない。機械がなかった頃は、他にも馬がいた。馬はほとんど山林仕事をした。木を切ったものを運ぶ。馬より牛の方が足が丈夫だという。
牛は所有している家もあれば、借りて来たりする家もあったという。自家用車を持つ人もいればカーシェアをする人もいるのと一緒だ。地域でいうと三好、美馬、それから香川の辺り。
牛はへらこくて、よく知っている。へらこいという言葉は阿波弁で「ずるい」という意味になる。「田んぼひきよっても我がしんどかったら、座り込んで動かんのじょ。自分も使われたらせこいで。田んぼ耕すのに。たまには息抜きみたいに休みよる。」
牛に田んぼを引かせるのは男性の仕事だったそうだというので、子どもの時に牛にご飯をあげるのは怖くなかったのか聞いてみたところ、それは怖くなかったという。冬はどうしていたのか気になり尋ねると、麦を作るので冬も牛は活躍した。
以上が徳島で行われた初めての試み、農耕牛の採取結果の要約である。後日、阿讃山脈を境に香川県の農家が農繁期に徳島県側の牛を借り受けて耕耘に使用する慣行のことを借耕牛(カリコ)といい、昭和30年代まで行われていた風習であることを知る。花脊でも春に牛を借りていたという話があったので、牛を借りる風習は比較的どの地域でも行われていた可能性の示唆となる。 しかしここで、そういえば、花脊で農耕期に借りて来ていた牛とは、そもそもどこから来た牛なのだろうか、とふとした疑問が浮かぶ。以前にその話を聞いた花脊の人に再び確認してみたところ、直接牛を飼っていた世代からは自分が若いので、そういえばどこから牛を借りてきたのかは知らないという話になる。もっと年齢が上の世代の人に話を聞いた方が事情がわかるのではないか、ということになる。
また、奈良のお葬式の話についても、改めて確認しようと思ったところ、こちらはお話を聞いた人の5歳くらいの時の記憶のため、あまりはっきりとはわからないというので、牛のお葬式、牛が死んだらどうなるのかについても、また疑問が出てき始めた。 調査において、疑問点とはつまり抱負なのかもしれない。
https://gyazo.com/3ddeecb55523c6fdb75a14d9c732884c
https://gyazo.com/ae58d19fc68dc84610630205df1b545f
野咲タラ