牛がいた頃・農耕牛の記憶の調査 第2部
[エッセイ]牛がいた頃 季語「牛冷す」を「歳時記」から調べてみる
「牛冷す」という夏の季語はもう使われなくなった季語だ。以前知り合いの当時岡山にいた俳人が教えてくれた。その時に初めて季語がなくなることを知る。俳句は生活の中から紡がれる言葉だから、生活の中からその風習がなくなれば、当然のごとく反映される。「牛冷す」という季語の終わりは、農耕牛に代わってトラクターが普及する頃だろう。
「牛冷す」の季語を最初に見つけたのは、手持ちの季寄せだ。歳時記を簡略化したものが季寄せで、歳時記同様に月ごとに季語が並べられ、季語の説明と選者が選んだ句が紹介される構成をとる。「牛冷す」は7月の季語となる。人も牛も夏の暑さは変わりなく、農耕牛を川や沼などに連れて冷やして涼む風習のことを指す。「牛冷す」という季語との出会いは、結果的に農耕牛につながった。そのうち、この季語を用いた句は他にどんなものがあるのか知りたくなる。句集を無作為に当たるより、歳時記や季寄せに紹介された句を採取しようと思い付く。
奥付初版が昭和34年(1959)の平凡社『俳句歳時記 夏』に歳時記調査で最も重要な事が書いてあった。「むかしはあまり用いられなかった季題である。」
現在(2023年)使われなくなった季語であるとともに、1959年時点からみた時、昔はあまり用いられなかった季語だという。農耕牛の終焉は調査当初から意識していたが、そういえば農耕牛のはじまりはいつからなのかを考えたことがなかった。厳密には、農耕牛はいつから民衆の間で流行ったのか。それは新しい発見であり、重要な課題が生まれた。そして「牛冷す」はどうやら旬の短い季語のようである。
[エッセイ]牛がいた頃 牛の獣医、芝崎先生の話を聞きに行く
2023年10月21日(土)神戸市のしあわせの村にはこうべ動物共生センターがあり、そこで牛の獣医さんが来られて話を聞かせてくれる催しがあったので、子どもたちに混ざって参加させてもらう。獣医の芝崎先生は子どもたちに質問をしたり、子どもたちからも芝崎先生に気軽に素朴で時に鋭い質問をしながら講義は進む。
「牛は人懐っこい性格で、近づくとあんた誰?といって近づいて、大きな舌で舐めてきます。その舌はざらっとしています。」
芝崎先生は表現も臨場感も豊かに、これまでのお仕事で出会ってきた牛たちのことを交えながら、獣医の専門知識を子どもにも大人にもわかりやすく楽しくお話をしてくださる。生き物としての牛の生態の話は、家畜動物としての牛の話になり、それから獣医さんの専門の牛の病気の話、治療法の話へとトピックが広がる。それらにはアナログなビール瓶から現代の最新技術の人工授精まで大きく関わる。芝崎先生から聞いた話の内容は、そのあとの調査でも、取材先のお話の中に、あ、これは芝崎先生の言っていた話だな、と繋がる話も多くてとても重宝した。芝崎先生は今日の話は基本の話だよと言っていたけれど、これは入り口にすぎず、牛という生き物はさらに奥深いようだ。
芝崎先生の話は、芝崎先生の牛への愛情と長年の経験が溢れていて、子どもたちにも大人気だった。
[エッセイ]牛がいた頃 六甲山牧場の乗用牛ランボルギーニと牧場での観察
2023年11月19日(日)乗用馬ならぬ乗用牛がいると噂を聞き、神戸市立六甲山牧場へ行く。元々現在は日本にいない農耕牛を調べているために、調査をしていても実際に牛と出会う機会はそれほどない。六甲山牧場は、動物と触れ合うことを目的の一つとしているので、たくさんの動物たちをとても間近によく見て、時に触れ合うことが出来る。
乗用牛ランボルギーニは乳牛用の白黒のホルスタイン種で、肉用牛の黒い和牛よりもだいぶ大きい。これが海外種の牛かと感心する。ランボルギーニはずっと柵のあたりから顔を覗かして人のそばにいて、人間たちからも大変人気だ。間もなく定刻13時になると動物とのふれあいタイムがあり、人間にとっては餌やり体験の時間、つまりランボルギーニはおやつの時間になる。スタッフが干し草と固形状のペレットのカップを餌棚に置いていく。干し草は子供から体験可能なアイテム、ペレットは大人用の体験アイテムとなっていた。牛は長い舌を器用に使って牧草やペレットを口へ運んで食べる。ふんわり柔らかい干し草は牛も容易に舌で絡めて食べられるので子どもの力でもボウルを支えやすい。ペレットは干し草をぎゅっと固めた固形タイプだから、牛が舌でペレットを絡める時にボウルを押さえつけ、その舌の圧力をボウル越しに受け止める力が必要なので大人の力がいるからだ。ランボルギーニはたまに餌の有無とは関係なく、ただ近づいて来た人も興味のまま舐めていた。牛の長い舌は、象の鼻や人の手の様な、対象物を把握するための役割がある様だった。
牧場には元競走馬のサラブレッド種や農耕馬にもなるハフリンガー種といった西洋馬だけでなく、日本在来種である古代馬ルーツの木曽馬もいたし、羊もいた。牛も馬も羊も同じ草食動物なのに糞の形が違う。羊の群れの観察は面白い。そして羊は意外に速い。牧場の牧草にも思いを巡らしたりもした。
後日、2024年4月21日(日)どうしても気になり、HPから牧場に問い合わせたところ、乗用牛ランボルギーニは農耕牛の調教方法ではなく、乗馬の調教方法で行われていることを教えてもらう。
[エッセイ]牛がいた頃 島根大学の板垣先生に話を聞く
2023年12月27日(水)島根大学の板垣先生にお話をお伺いする。ご著書『牛と農村の近代史』は、当時の舞台である農村と牛を社会経済史的な側面から捉えている。農村の裏側の仕組みを知るような気持ちでとても面白い。それらは続けて来られた古老の聞き取りにもとづく生活史に裏打ちされているので、さらに説得力を増す。
それからこの調査での私の最大の謎の一つも解決する。板垣先生のご実家もそうだったという博労のことだ。博労とは農家の人から見た言葉で、牛馬の世話をしてくれる人という意味では共通しているけれど、その存在形態や経営のあり方が様々であるため、実態分析に向かない用語だそうだ。博労という存在自体が興味深い。
中国山地が牛の産地になった理由が、畿内で売るための使役牛を育てるようになったという地理的なトピックも重要だった。
農家にとっては牛が唯一で不可欠なインフォーマルな金融機能・保険機能を果たしていたというのが板垣先生の考えだ。江戸時代の中国山地で誕生した蔓牛による品種改良は、農家がより楽に農業が出来るよう、地域社会が優良牛を産み育てる方法だったと但馬で聞いたことにも繋がる。牛持と廐先の相互信頼関係や地域社会での福祉的に機能する牛の慣行が、特に零細な農家を救済する方法として機能していた点は、中国山地の牛文化の歴史の中で重要な視点だと思った。
他、牛馬市の紹介、家畜の多様な役割、牛が保険機能・金融機能を担っていた頃と牛の役割の変化、たたら産業の衰退と新興博労の参入、牛の売買取引、農家と博労間の牛をめぐるお金の動きなど、充実したお話を聞く機会だった。
[エッセイ]牛がいた頃 鹿の解体をした報告の電話
2023年12月31日(日)大晦日になり花脊の知り合いのおじさんに年末の挨拶の電話をする。電話口でおじさんは仏壇を拭いていたところだったと言う。私は12月に花脊で鹿の解体をした話をした。調査の中で農耕牛がのちに肉牛になることを知り、元と場に見学に行ったことをきっかけに、お肉がどうやって作られるのか自分が知らないことに気が付き、狩猟体験に参加した。おじさんに解体中の鹿肉から上がる湯気が凄かったことを伝えると、おじさんが解体をした時もいつも湯気が凄いものだったと言う。
おじさんからはこれまで何度も狩猟や釣りの話を聞いた。夏は川釣りで冬は狩猟の話。それらはおじさんの武勇伝だ。おじさんはかれこれ何千頭の鹿やら猪やら、それから熊までも狩猟したそうだ。熊はそれ程いないので、百頭くらい。それでも多い。そんなに多くの熊が花脊にいたのかと思いながらも、しかし今年も花脊に熊の出没情報が出ていて、張り紙をして注意を促していた。
おじさんは熊の脂の話をしてくれる。冬眠中の熊は、私たちがセーターを着込むように、天然に着込んでいる状態で、お腹から背中にかけて脂が何センチも付いている。冬は熊でも猪でも脂がのっている。その熊の脂を鍋の中に入れて溶かして、茶こしで漉す。熊の脂は何十年何百年と保つらしく、今度見せてくれることになる。熊の脂はあかぎれの手に塗るといい。
鹿肉は獲れたてを焼いて生姜醤油で食べるのが美味いと教えてくれる。山葵醬油も美味しいらしい。
[エッセイ]牛がいた頃 岡山県田倉牛神社
2024年1月5日(金)岡山県吉永駅の田倉牛神社には備前焼の小牛を備える風習がある。せっかくなので祭りの日に行くことにした。正月は近郊からもお詣りに人がたくさん集まり1年で最も賑わうという。左右を田んぼに囲まれた白い一本道の参道が、田倉牛神社の鳥居に向かって引かれ、参道の露店が正月の大祭を彩る。名前には牛があるのみで中国山地の牛文化が由来の神社だが、大きな鳥居に並んで掲げられた幟は牛のみならず馬の絵も描かれ、かつての日本の二大役畜がともに祀られていることがわかる。露店で一つお供え用の備前焼の小牛の像を手に入れて、いざ参拝に歩みを進めると、出迎えてくれた狛犬たちが茶色く立派で大きな備前焼で大変驚く。ここは岡山だ。
田倉牛神社は、江戸時代の初期に岡山藩が農業振興策の一つに農家に牛を買うことを奨励し、各村に祠をまつらせたものがその始まりといわれている。文献資料には残っていないとされるけれど、地位の低かった農民のことがどこまで文書に残されるかという点を考えると、文献資料が残っていないことに説得力を感じてしまう。もともと牛神様のため参拝の目的は飼牛の病気平癒の祈願が多かったけれど、昭和初期頃からは次第に一般的な五穀豊穣、家内安全、結婚、就職、入試、交通安全、商売繁昌など、時代の流れと共に祈願の対象が変化し今は柔軟に対応する。
境内の広場は木々に囲まれていて少し薄暗く、正面に1メートルほどの高さの台座があり、その上に小さな小牛が堆く集まって丘が出来ていた。ご神体は石で彫刻された牛となり、まわりには参拝者によって供えられた備前焼の小牛がうず高く積まれ、それが神座となる。小牛の数は二十万体とも三十万体ともいわれる。参拝者は牛像を神座に一体供え、神座の中からすでに祈願者が供えた牛像を一体借りて帰り、大願成就のあかつきには、借りた小牛とともに、もう一体小牛を添えて二体でお返しするのがこの神社の慣わしだ。
正面から御神座に無病息災をお祈りしたら、先程の小牛の像をこの神座の中へと奉納し、連れて帰る小牛の像を神座の中から選ぶ。行ったり来たりしばらく小牛を順番に眺めていく。すると一つ、綱を付けた小牛を見つけた。綱はくるんと背の真ん中あたりで円を描き、その様子が可愛らしい。他の小牛にはない綱は、この小牛が農耕牛の証のように思え選ぶ理由となった。
[エッセイ]牛がいた頃 岡山県吉備鼻ぐり塚
2024年1月5日(金)鼻ぐり塚は吉備津彦神社もある吉備津駅にある。ここは牛を供養する場所だ。病気やと畜で亡くなった牛を供養するために、その鼻ぐり=鼻かんを集めて祀っている。鼻かんは牛の鼻につける10センチくらいの大きなプラスチック製の輪だ。牛が死んだあと唯一残す物が鼻かんとなる。宗教法人のお寺の境内にあり、百円を納めることが奉納料であり、鼻ぐり塚への入場料であり、護摩木の代金でもある。手に入れた護摩木に名前と願掛けを書いた後、案内に従い境内の通路を進む。開けた場所に塚はあった。丘のような隆起はもともと円墳で、そこに昭和初年に塚が建立されて以来700万個を超える鼻かんが安置される。現在でも春になると畜類供養のための畜魂祭が行われ、年間数万個の鼻輪が塚に納められる。
塚の状況は小牛が鼻かんに置き換わったとも言える。田倉牛神社で積み重なった小牛は生きることの祈りのための像で、牛の形をしているけれど、返ってそれがフィクション的な要素に感じる。一方、鼻ぐり塚の牛の死を悼む鼻かんは牛の造形がないにもかかわらず、実際に牛に用いられていた事実により想像力は現実的な牛の生々しさを捉える。物理的には敷地内の木々が鬱蒼と茂っていることも要因とはいえ、そこにあるのが鼻かんであることが怖さや暗さを伴うことに大きく寄与するのだろう。鼻かんはどれも少し汚れている。
日本中にあるという畜魂碑をはじめ鼻ぐり塚は日本の食事の時の挨拶「いただきます」と同様、食べものに感謝する文化で、それは日本ならではのものだと今回の調査で知った。牛の供養が「いただきます」に繋がることは、実際に鼻ぐり塚へ行き、その鼻かんの量を目の前にしてみると、たくさんの命の数が迫ってくる心地からとてもよくわかる。と同時に、食事の前に、半ば無意識に当たり前に発していた呪文のような言葉「いただきます」は、祈りの言葉だったことを思い直す。「いただきます」は謙譲語で、食べる行為に関して、相手側又は第三者に向かう行為・ものごとなどについて、その向かう先を立てる。私という省略された主語を起点に感謝を述べる。感謝の先は、目の前に提供された食事の提供者だけでなく、食事を食べられること、食べる対象のいのち。形式的な言葉として確立した途端に、食べるという原初的な行為はとても大きな哲学を孕んむ。
いただきますの英訳を調べてみると、「I’ll enjoy having this」や「Let's eat.」となるそうだ。食べる行為者が主語となり、主体の食べる行為をポジティブに肯定したり、共に食べることを奨励する。英語に限らず外国語に日本語の「いただきます」を表す言葉はないようだ。
鼻ぐり塚のちょっと薄暗い雰囲気が怖いような気になるけれど、よく考えてみると、スーパーのお肉売り場に並ぶ牛肉の方が直接的に牛そのものでもある。本当はそのことをとてもよく知るはずが、キラキラとした照明の下、経済社会の中の商品として並び、肉として認識されるため、肉は当然ながら怖くない。
食べるとはとても不思議なことだ。
[エッセイ]牛がいた頃 広島県三原市久井歴史資料館
2024年1月6日(土)牛馬市の歴史資料館がある。場所は中国山地の牛文化圏に位置する広島県の三原市。久井歴史資料館だ。地名の久井は牛を繋ぐ杭が由来とも言われている。
展示室には牛馬市にまつわる民俗資料と牛馬市についてのパネルが並ぶ。最初に目に入るのは、白地の布に墨で「馬牛谷脇宿」と書かれた大きな正方形の幕だ。これは臨時宿を示すために掲げた宿看板幕だ。牛馬市にはたくさんの人と牛馬が集まってくるから、宿泊する場所を確保することがまず第一に大変だった。博労の人たちとその追った牛馬も一緒に宿泊が可能な宿は牛馬宿といい、全盛期には30軒ほどあったという。そして牛馬市の開催期間はそれでも足りず、臨時宿も村全域にわたって設けられた。近所の農家が臨時宿となったのだそうだ。村を挙げての牛市である様子がそこからも伺える。
他の展示も人や牛馬の多さを表すものが多い。箱に山積みに入っている木札は「入札切符」といい、宿の食券札のことで食い逃げ防止のために宿泊人を確認して渡していた。食事の準備には
「平口釜」が活躍する。お米を炊いた釜で、一度に15キロの米、50人分が炊ける。そして牛馬市には人だけでなく牛馬も集まってくる。そうとなると牛馬のご飯も大量に必要で、牛馬の飼料を作る湯沸しに使用した「野釜」は五右衛門風呂ではないかというぐらい大きな釜だ。牛馬宿の宿泊料は1等から6等までで、6等の安い2300円から1等の2800円まである。
その牛馬市があった場所は近所の稲生神社の側だった。牛馬は春と秋には季節放牧が行われる。そして放牧から牛馬が帰ってくるタイミングが、神社仏閣の春と秋の祭礼の時期と重なり、牛馬市が開催されるようになったという。ここ久井の牛馬市の理由も然り。牛馬における移動のサイクルと人の生活風習のサイクルは、大きな自然の一部であるようでとてもおもしろい。
牛の価値は性別や年齢など、またはその時代の要請によって流行や需要によって異なる。久井牛馬市の起源は古く、千年以上の歴史がある。江戸時代には広島藩の公認となった。久井の牛馬市は1970(昭和45)年に長い歴史に幕を閉じる。
資料館を後にして広島県三原市の久井の牛市跡へ行くと、そこは駐車場だった。
[エッセイ]牛がいた頃 京都市中央食肉市場の見学
2024年1月20日(火)京都市中央食肉市場は、6年前に建物が新しくなり、自分たちが普段食べている肉ができるまでの工程を、誰でも見学することが可能だ。隠すのではなく実際に見て知る機会が提供されることは、さまざまな視点で食肉を考えるきっかけになるだろう。衛生面では、ここで加工したお肉は海外にも出荷が出来る。肉は製品の意味合いが現代の日本の社会では強い。だけど実際には、生きていた命を生きている自分たちが食べられる状態に変換する必要があり、と場はその分岐点だ。大きな牛や豚をたくさん捌くためには、工場のシステマチックさは不可欠だろうけれど、各作業はたくさんの人が関わり、たくさんの人の手によって行われていた。
[お知らせ]
後半の調査記録は、報告用のダイジェスト版です。調査内容の詳細なものは、個人で作成予定のZINE(紙媒体の印刷物)を作成予定です。
野咲タラ