ふるさとの方言第2集
しばり
木工細工などをしていて指にとげが刺さることをしばりが刺さるとか、しばりが立つと言う。痛いのでピンセットで抜こうとするが抜き残したりすると膿んで切開しないといけなくなることもある。私自身は年を取って用心深くなったのか、しばりに悩まされることが減った。鉛筆の芯が指の中に入り込んで出て来なくなった人もいると聞く。昔、鉛筆は子供にとって必需品だった。問題がすらすら解けないと噛んだり転がしたりした。またよく折れもしたが、芯がしばりになるというのはどういう扱いをしたのだろうか。
辞書によると割と広い地域で使われていて福井県や滋賀県では「すいばら」というらしい。鳥取県西伯郡では「すばあ」。語源は不明。最初に連想するのは「柴+針」だがどうだろうか。「さいばり」という地方はないようだがあれば「細針」でぴったり。昔は割り箸に粗悪品が多くてしばりの原因となることが多かった。「わりばし」がひっくり返ったというのはさすがに無理か。
たばこする
仕事を中断し、しばし休憩することを山陰では「たばこする」という。「そろそろ疲れてきたけん、ここらでたばこしょいや」のように使う。休憩中の時間の過ごしかたは喫煙とは限らない。標準語にも「一服する」という表現がある。非喫煙者も「たばこする」し「一服する」。今は喫煙者は煙たがられ、絶滅危惧種になりつつある。「たばこする」も「一服する」も早晩、死語への道をたどるであろう。
とはいえ、1分1秒を精密時計で管理する現代において、自然や生理にしたがって適宜休息をとる古人の知恵は、存外、働き方改革の参考になるかもしれない。スペインあたりではシエスタといって、長い昼休みを取る習慣がある。ヘビースモーカーならば、たばこ1箱が空になりそうなほどの時間だ。世界標準に合わせて廃止する企業も出てきているそうだが残念なことだ。
「日もだいぶん傾いてきた。今日はこの辺にしとかか」とか「がいな台風がくうしこだ。あしたは休みにしょいや」といった晴耕雨読の健全な生活を送っていれば、適応障害になったり、神経内科のお世話になるホモサピエンスも減るのではなかろうか。
ぎっちょ
「ぎっちょ」とは左利きのことである。チンパンジーはそうでもないらしいが、ホモサピエンスでは右利きが圧倒的に多く、左利きは10%程度といわれている。それからするとホモサピエンスが生み出した文化が右利き文化になったのは仕方のないことかもしれない。はさみでも缶切りでも、パソコンのマウスでも右利きにとって使いやすいように作られている。
不便なだけならば当事者が少し我慢すれば良いだけの話なのだが、人間社会では少数者を差別やいじめの対象にするというやっかいな問題が起こる。そのために、昔は、幼児期に「ぎっちょ」を矯正しようとする母親が多かった。私もその犠牲になった1人である。苦労した末に鉛筆を持つ手と箸を持つ手は右手も使えるようになった。しかし、副作用もあった。ひどい吃音に長く悩まされ、その克服のためにより大きな苦しみを味わうことになった。
今では利き手を矯正しようとする親はいない。これも時代の進歩だと歓迎したい。昔は「ぎっちょ」には少数者に対する差別的響きがあり、言われたほうは幾分かのコンプレックスを感じたように思う。「器用」のなまった言葉であるという語源からすると、「ぎっちょ」といわれたら「おまえも右ぎっちょじゃないか」と言い返せば良かった。優越感を感じても良いのは「両ぎっちょ」だけである。性的嗜好の問題もそうだが多様性を認める社会の実現には時間がかかる。
おせ
万葉集に「うち日(ひ)さす宮のわが背は大和女(やまとめ)の膝枕(ひざまく)ごとに吾を忘らすな」という歌がある(巻14・3457)。中西進によれば、都に行く夫を見送る妻の歌で「日がさし輝く宮にのぼるわが背は、大和の女の膝を枕にすることはあってもよいが、その度に、私をお忘れになるな」という意味だそうだ。古代の日本語では男の兄弟や配偶者は「せ」と言い背、兄、夫という漢字を当てた。女の姉妹や配偶者は「いも」と言った。妹背と言えば夫婦を意味するが、一夫一婦だったかどうかはよく分からない。
「おせ」は古代日本語が方言として生き残ったものであろう。古い文献に「児の成長したるををせと云へり」とあり、語源は「大兄」だとする説がある。筆者の経験では久しぶりに親戚やその近所の女性に会ったときに「あらっ、しばらく見んうちにがいにおせになーなって」と言われて、恥ずかしながらもうれしかった記憶がある。20歳になっていなくても、急に背丈が伸びたりしたときに言われたような気がする。鹿児島では25~30歳くらいをおせと言うらしい。言葉の響きからしても、背筋がぴんと伸びているうちがおせで膝枕が似合わなくなればもうおせではなかろう。「おせげな」は例外的にませた女性にも使われたように記憶するが女性に対するほめ言葉はやはり「ええにょばになったなあ」であろう。
ゴズ
ハゼのことを米子から境港、松江、出雲にかけてゴズという。鳥取ではゴズと言わないそうだからアゴ(トビウオ)などと比べても使用地域はかなり狭い。狭い反面「ゴズ」はしたたかに生き残っていて、そう簡単に標準語に取って代わられそうにない。子どものころは境の岸壁や森山の海岸でゴズ釣りをした。竿は使わず上から見ながら口元に餌を持っていくだけで良かった。子どもでもよく釣れた。みんな馬鹿にしていたが、頭でっかちでどことなく愛嬌があった。ゴズの語源はおそらく「牛頭」である。
牛頭は仏教では、牛の頭と人間の体をもった地獄の番人のことである。もう一匹の番人が馬頭(めず)で恐ろしい形相で人に打ちかかる絵が伝えられている。しかし、仏教以前のインドでは牛頭は悪疫を防ぐ守護神で、牛頭天王として敬われていた。京都の八坂神社(祇園社)の祭神にもなっている。祇園祭は疫病退散を願って平安時代に始まったとされているが、牛頭信仰に由来すると思われる。
ぺったい
小学校の低学年のころに流行った遊びにぺったいがある。ぺったいは標準語ではめんこという。表に英雄や映画スターが描かれていた。江戸時代の役者絵に似ておりどうもそれがめんこ=面子の語源らしいが、米子の「ぺったい」は餅つきのぺったんぺったんと同じく擬音であろう。相手の面子の近くに自分の面子をたたきつけて風を起こし、その力を利用してひっくり返してもいいし、直角に当てて弾き飛ばしてもいい。とにかく相手のぺったいを裏返しにすると自分のものになる。2枚重ねて貼り付けて重くしたり、丸いぺったいを歯磨き粉のアルミの蓋で補強したものもあった。紙対金属では勝ち目もない。ルール違反だと思うがなぜか許容されていた。まれに紙が勝つことがあったからだろう。
そういう英雄的なことができるE君は並ぶもののいないぺったいの達人で、校区外まで遠征して袋一杯のぺったいを持ち帰るのを常としていた。E君は小石や埴輪のかけらも収集していた。私も感化されて石集めをしてみたが、興味が続かなかった。ぺったいも弱かった。3つ子の魂だったのか、E 君の収集癖はその後もやむことなく続き、成人してからは本物の民芸品や古美術に向かい、収集品を紹介する本なども著した。ぺったいの後はもっと小さなぴんこというのもはやった。これは指で挟んで弾き飛ばした。室内で遊ぶ遊びだった。遠くまで飛ぶことを競ったように思う。
電気とんぼ
子どものころに遊んだとんぼの名前を挙げてくださいと問えば、塩辛とんぼに麦藁とんぼ(シオカラトンボの♀)、銀やんま、鬼やんま、羽黒とんぼに赤とんぼ(アキアカネやウスバキトンボ)といったところが答えとして返ってくるだろうが、浜(弓ヶ浜半島)では電気とんぼも人気があった。標準語でコシアキトンボということを知ったのはずっと後のことである。黒い体で腰の部分だけが白く空いているように見えるのでコシアキトンボ。意味は通じるが味気ない。ここは浜弁の方に軍配を上げたい。
蛍ほど濃くはないが雌や羽化したばかりの雄は腰の色が白ではなく黄色みを帯びていて、ちょうど明かりが灯っているように見えるのだ。電気というと電気鰻を連想する人もいるかもしれないがビリビリしびれる電気ではない。昔のいなかで電気といえば電灯のことであった。どこにでもいる普通種だが、この名前のおかげで浜では重宝がられていた。今でも浜の子どもは電気とんぼを追いかけているだろうか。
ざまく
標準語に「おざなり」と「なおざり」というよく似た言葉がある。おざなりはその場だけを取り繕ってやり過ごす無責任な態度を意味する。おざなりは漢字で書くと「御座成り」である。なおざりは課題に真面目に向き合わずいい加減に対処する、あるいは何もせずほったらかしにすることを意味する。漢字で書くと当て字だが「等閑」である。「おざなり」と「なおざり」は違いが微妙で音も似ているのでよく混同される。
山陰で使われる「ざまく」は「なおざり」に近い。しかし、等閑視するといった意味では使われず、より具体的に、物の扱いがぞんざいであるときに使う。大根の切り方がざまくであるとか洗濯物のたたみ方がざまくであるとかいう。嫁が部屋を丸く掃くと姑から「○○さん、そげなざまくなことではいけんがん。」と叱られることになる。意外にも「ざまくな仕事をする」という例が広辞苑に載っている。今は方言だがもとは由緒正しい言葉だったのだ。元来の意味は他の物に屑・ごみなどが混じったさまだという。そこで不純物から連想される言葉と「ざまく」を結ぶミッシングリンクを探したが、結局見つからなかった。座を煙に巻くような結論でごめん。