ふるさとの方言第1集
かんた
今は境港でも死語になったかもしれないが、私が子どもだった頃に年寄りの会話にしょっちゅう出てきた言葉である。「かんたはどげ思っちょうか知らんが、わしゃこげ思うだがな」のように使う。
意味はすぐに分かるが、語源が分かったのは高校で古語を勉強するようになってからだ。「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう」の「あなた」は「かなた」のことで両者は相互互換的に使う。「ふるさと」の「かの山」は「蚊の山」ではなく「あの山」の意味だとわかったのも高校に入ってからだ。「かんた」も「かなた」という由緒ある言葉が変化したものだったのだ。
相手に対する敬称として生まれてきたはずの「貴様」や「御前(おまえ)」、「御主(おぬし)」などはすでに相手への敬意が失われているが「あなた」には今でも敬意が感じられる。しかし、「かんた」は「あんた」と同じく敬意がやや薄れ、むしろ親しみを込めて使われていたように思う。
怖いという意味の「きょうとい」(←気疎し)は今でも使われているようだ。古語由来のふるさとの言葉は大切にしたいものである。
よもっちぇ
境港で「よもっちぇ」とは分家のことを指す。『日本国語大辞典』にちゃんと載っていた。「世持ち」からきているという。意味は「次男以下の者などが分かれて一家をもつこと」とある。岡山県や徳島県では、分家という意味ではなく、所帯持ちや女房持ちという意味で使うらしい。つまり、もとの意味は所帯持ちや女房持ちであったが、分家の意味に転化したのだということが分かる。
鶴女房の話にもあるように、昔は農家の次男や三男は貧しいために女房をもつことができなかった。そばやいもで暮らしていた「浜のいもた」は、長男以外は一家をかまえることはできない。それでも、たまに家が栄えて、次男でも嫁をもらえるところがあったとしよう。周りの者は羨望のまなざしで分家の独立を祝ったであろう。それが「よもっちぇ」(所帯持ち)である。だから「よもっちぇ」には誇らしげな響きがあるのだ。
いま、給料が低くて結婚できない人たちが増えている。ふたたび「よもっちぇ」が誇らしげに人々の口に上るときが来るかもしれない。今度は分家の意味ではなくて、言葉の本来の意味で。
ダラ
日本の方言は京都を発信地として同心円状に幾重にも伝搬していった痕跡であるといわれる。『全国アホバカ分布考』は、愚者を意味する方言をテレビの力を使って視聴者からかき集め、この仮説を実証した快著である。言語学者からも一目置かれている。語源についても詳しく、琉球方言の「フリムン」は「気の触れた者」ではなく「惚れ者」であることを突き止めるところなど拍手を送りたくなるほどだ。しかし、「ダラ」、「ダラズ」の語源は賛同しかねる。「ダラ」が本家の山陰だけでなく北陸や南九州にも分布していることを教えてくれるのはうれしいが、「足らず」からきていると片付けているのは「物足りない」。これだと「タラズ」→「ダラズ」→「ダラ」と変化したことになる。ネイティブの1 人として違和感をぬぐえない。
私は昔、He is a dull boy という英語(名詞形はdullard)に出遭って、「ダラ」は「茶」や「火」、「閼伽(あか)」と同じく東西を貫く世界共通語だと直感し、この大発見に小躍りしたものだが、はずれていた。しかし、バカも「馬鹿」は当て字で正しくは仏教由来のサンスクリット語だという。関西でも使われる「アホンダラ」については阿呆陀羅と書くこともある。「陀羅尼」は本物の仏教用語で神通力を意味する。「ダラ」が世界共通語でなくてもいいが、「足らず」より奥深い言葉であってほしいと願うのは私だけか。えっ、dollar やdollars はすでに世界通貨になっているからそれだけで十分じゃないかって?
がいな
第1音が濁っているので大和言葉ではない。「が」を鼻濁音にすればましかもしれないが、どうも響きがよくない。43回目を迎えた「米子がいな祭」も最近は「米子が、いーな、祭」と読ませるそうだ。
大きいことはいいことだというCMソングがはやったことがある。高度成長を象徴するような歌だった。日本は中国と異なり、盆栽に代表されるような「縮み」文化があると喝破した韓国人がいた。奈良の大仏あたりまでは大陸の物まねだが、途中から日本独特のこじんまりとした文化がそれにとってかわる。いま世界中でクールだと人気の「kawaii」文化もそれに連なるものだろう。洋の東西を問わず、大きいものが人をひきつける「美」を備え、人をして崇め、ひれ伏せさせる力を持っていることは、否定しない。政治家も皇帝になることを夢見る。しかし、私はこれからの日本は小さくともクールでkawaii国であってほしいと願う。
「がいな」の語源はあれこれ調べるまでもなく、国語辞書に載っている。億兆京垓の「垓」や概数の「概」ではなく「雅意」または「我意」であり、「自分の考えを押し通そうとする心」である。良い意味でも悪い意味でも使う。平清盛のふるまいについての例が大辞典で紹介されている。「ひとへに太政入道の雅意の所行なり」。境港で「あーさんはがいなもんだけん」というときにも13世紀の源平盛衰記のニュアンスが受け継がれているように思う。
しごする
「死語」ではない。今も、米子だけでなく広く中国地方で使われている。宛てる漢字ははっきりしないが、宛てるとすれば「扱する」か。「仕事する」のつづまったものではない。「しごく」と同根だと思われる。折檻するといった強い響きはないが自分の思い通りになるように、扱いやすい形に下ごしらえをするといった意味である。
境港では、魚料理をするときに、鱗を取り頭を落として三枚に下ろすあたりまでの作業を「魚をしごする」という。同じく料理でも野菜の場合はあまり聞いたことがないが、煮炊きする前段階として野菜も「しご」は必要である。農作物の世話全般を「しご」という地方もあるようである。
人間も教育の前に「しご」は必要である。教師の言うことに耳を傾けず、授業中スマホをしたり「私語する」ような者は、「しご」して学ぶ姿勢を身につけさせなければならない。しかし、人間は魚や野菜ほどおとなしくない。子どものころ、近所のおじさんたちが、おまえんとこの子は「しごんならん」と嘆くのをよく聞いた。もちろん筆者のことではありません。
最後に、隠岐では死者の冥福を祈って遺体をひつぎに納める作業を「しごする」というらしい。この場合は「扱する」より「死後する」のほうが適確か。
しょうから
前回、しごんならん近所の子について書いた。そこまでではないが、腕白でいたずら好き、ケンカ早い男の子のことを山陰で「しょうから」という。植田正治の「童歴」に出てくる小僧のイメージである。辞書によると「塩辛」から来ている方言だという。しかし、その語源は疑わしい。山陰でもイカの塩辛は「しおから」といい「しょうから」とは言わない。美容院と病院くらいの違いがある。日本語を母語とする人にとって美容院と病院の発音は異なるし、耳でも聞き分けられる。同じように境港のネイティブにとって「塩辛」と「しょうから」は聞き分けられる。そこから推測するに、「しょう」は「性」なのではないか。標準語にも「性悪(しょうわる)」とか「性根(しょうね)」といった言葉がある。「塩」がなまったものではあるまい。
それはそうと最近の子どもはみな品が良く美しい。柴犬でさえ美男美女ばかりで筆者の好きな「しょうから顔」が消えてしまった。イカの塩辛も甘くなっている。「しょうから」が死語になる日は近いだろう。代わりにでもあるまいが、現在の流行は「塩顔」だそうだ。「醬油顔」というのは聞いたことがあるが「塩顔」というのは聞いたことがない。想像できないのでインターネットで調べてみたら向井理(むかいおさむ)のような顔だそうだ。水木しげるの「しょうから顔」は遠くなりにけり、である。
シメ(×)
正答・誤答あるいはイエス・ノーの○×を「マルバツ」と読むようになったのはいつからか。大学生になってからか、それともテレビのクイズ番組を見るようになってからか。境港では×は「シメ」と発音していたように思う。しかし、ふるさと以外で○×を「マルシメ」と発音する日本人に出会ったことがない。「掛ける」から「カケ」と発音する人がいたような気もするが、みなさんの記憶はどうであろうか。
「シメ」の語源は「しめる」であろう。「締める」は〆切りのように〆という略字を使うことがある。昔はシメなどというひどい名前を親からつけられた女の子もいた。ちり紙や半紙の束を1〆という用法も辞書に出てくる。しかし、誤答の×をシメという用法は辞書で見つけられなかった。だからシメはやはりふるさとの言葉として扱っていいだろうが、今でも米東生がこういう言い方をしているのかどうかは知らない。
話は少し飛ぶが、ドイツの森を散歩していたとき、行き先を示す案内板に×印がよく書いてあった。これはチェック☑の意味で、×印のほうへ進むのが正しいのだが最初はかなり戸惑った。行き止まりになったり迷路に入り込むのではないかと。日本でも最近は○の代わりに☑を使うことが多くなった。発音はともかく記号の国際的標準化は確実に進んでいるようだ。