勝部純基(52期)「東高校歌制定物語」
令和7年11月30日発行「勝陵 第55号」に特別企画として本会元副会長・勝部純基さん(52期)著「東高校歌制定70周年 その誕生物語を回顧する」が掲載されました。発行後、勝部純基さんから執筆の経緯を記した顛末記と補遺編をいただきました。
以下にそのまま掲載したいと思います。ご参照ください。
なお、「勝陵 第55号 特別企画」の本文は下記より参照できます。
https://1drv.ms/b/c/16addec760f67150/IQAVaCT0rIUbSqQYTZmevwQjAckY2NC7gYeyb1T46oQuUKc?e=uchKLw
(以上、事務局記)
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◎「東高校歌制定70周年、その誕生物語を回顧する」その補遺顛末記
2026(令和8年)/1月 勝部純基(52期) 
はじめに:
表題寄稿文が勝陵第55号(令和7年11月30日発行)に掲載されたが、母校校歌が同窓生の共通財産として70年にわたり歌い続けられてきた今日、この寄稿文が同窓生の母校校歌の歴史と共に、その真価を知る上で幾ばくかの助けになれば幸いである。ただ、勝陵寄稿文にはスペースの関係で書き込めなかった内容も少なからずあったので、記録の意味合いも込めて、それらを補遺顛末記として、以下に書き留めたい。
1.誕生物語回顧の事始めは関西米城会総会にあった:
●一昨年の令和6年2月、コロナで永く休会になっていた関西米城会総会が4年振りに新会場で開催される事になり、私も期待に胸を膨らませていた。 しかし、前々日に急に体調を崩し、総会をドタキャンすると言う情けない事になった。
●続く昨年の令和7年度の総会を前にして、今年は無事に行けるかどうかと不安を覚えつつ、東高生時代を回想していたら、当時のハイライトであった校歌制定活動の記憶が蘇った。そして、その誕生は1955年であり、本年は70周年に当たる事に気が付いた。
●ただ、今や校歌誕生物語を知る人は殆どいないと想定される上に、当時の関係者の殆どが物故者になっている現状に愕然となってしまった。 それなら存命の自分が今、誕生経緯を文章化しておくべき責務があるのではと思い至った。
●その趣旨を東高や同窓会に同意してもらうべきと考え、総会の数日前に急遽、素文案を書き上げ、総会会場で臨席の東高校長、勝田ケ丘同窓会会長、関西米城会会長に直接、手渡した。 皆さん、唐突の私の申し出に当惑された様子であったが、私は文案を読んだ上でご判断頂ければ良いと思っていた。
●その後、趣旨にはご賛同頂けたが、掲載先を勝陵にするか関西米城会報にするかの問題が残った。 出来るだけ多くの同窓生に読んでもらう為には勝陵であるが、勝陵には定例記事欄が多く、どのような位置づけで掲載するかの問題もあった。
●最終的に、本部と関西米城会の役員間の協議と暖かい配慮の結果、勝陵に「特別企画」と言う場を頂いて掲載となった。
2.校歌制定活動を生徒会が主体的に進めるに至った時代背景:
●米子中学から米子東高へと繋がってきた勝田ケ丘同窓会には、戦前の米子中学時代に作られた文豪、土井晩翠作詞の校歌があったが、新制米子東高には創立5年後も校歌がなかった。 その中で本校にも校歌が必要と熱く発議したのが大坪功明氏(51期)であった。
●その発議を受けて1954年5月の生徒会はこれを是とした。 生徒会がかかる大事業に挑もうとしたのには、それなりの時代背景があったと私は今になって回顧する。
●戦後2年目の1947年に新教育制度が施行され、中学3年間が義務教育となって、新制中学→新制高校→新制大学の教育体系が発足した。 そして私の2年上級学年生(50期)からこの制度下で東高に進学してきた。
●その中で私の1級上の学年生(51期)には「新制高校生活は如何にあるべきか」と言う問題意識を胸に抱く人材が多く存在していた。 即ち、高校は大学への準備期間(予備校的存在)ではない筈として、文化的活動への思いを具体的に実践する人材が少なくなかった。
●因みに、塚谷誠氏(元関西米城会会長)や校歌制定を発議した大坪功明氏は学内に既に存在していた文芸誌「柊」とは別に同人誌「泉」を立ち上げていた(文才のない私も強引に入会させられた)。 あるいは吉野恭治氏は映画研究部を立ち上げていた。
●そのような人材が集まって出来た1954年前期の生徒会役員会であったので、校歌制定活動提案も是とされたと考える。 なお、当期の生徒会長は私の従兄の勝部清水氏(51 期)であった。 彼は東高卒業後は家業の農業を継ぐと早くから宣言していたので、学友からそれなら生徒会長をやれと推されて就任していた。 この経緯もあって、当役員会の背後には多くの力強い支援者が付いていた。
●かくして決まった校歌制定活動は上記の塚谷氏や大坪氏を中心に進められた。 先ずは作詞が先決であるとして、最初は著名作詞家への依頼も考えたが、予算の関係で無理だと判断し、米中の先輩である東北大文学部の伊田友作教授(19期)に当る事になった。この依頼に当っては美術担当の田淵 巖先生(18期) が紹介の労をとって下さった。田淵先生は東高校章であるロゴス、パトスの柏葉の創案者であった(校歌には、この柏葉の一節が盛り込まれている)。
3.一旦、頓挫を余儀なくされた校歌制定活動、そして新しい生徒会役員会で再出発:
●8月後半になって伊田先生から固辞の信書が届き、校歌制定活動は一頓挫する所となった。先生からは、自分は米子を離れて永くなるので、やはり身近な人から生まれる方が良いのではないかとの話であった。これは私の推測であるが、先生は戦前の価値観で活躍されていた筈なので、戦後の民主主義下の新校歌創作には逡巡する所があったのかもしれない。
●夏休が終わり、9月からの後期では生徒会役員会は3年生から2年生 に引き継がれ、前期で副会長を務めていた事由で、私が会長職を務める事になった。校歌制定活動も伊田先生の助言もあって、作詞は学内公募方式でやってみる事として再出発した。 ただ、その実行部隊として、生徒会の許に専任の校歌制定委員会を設けて推進する事になった。
●委員長には文学青年であった山田 章君(52期)が就任したが、山田委員長率いる制定委員会は以降4か月にわたり、てきぱきと実務作業を遂行して、校歌誕生に貢献した。
4.遂に学内公募で校歌(歌詞)が誕生:
●学内に、何時、どのような形で校歌公募を周知させたかの正確な記憶は私にはない。ただ、締め切りを10月末としていたように記憶するので、一月余で果たして応募作品が集まるかを心配した記憶がある。
●幸いにも12編の応募作品があり、応募者匿名で審査が進められ、最終的に文句なく選ばれたのが、針本武義先生の作品であった事は寄稿文に記した通りである。
●今になって私は針本先生以外の11人の応募者が誰であったか興味を覚えるが、当時、山田委員長は守秘義務を厳格に守り通していたので、氏名を教えてもらえていなかった。
5.優れた歌曲の誕生も実現:
●作曲を誰に委嘱するかの検討過程に就いては私には殆ど記憶がない。 おそらく、当時、東高で音楽を担当していた判沢(都田)千枝子先生のアドバイスに従ったものと推定する。
●東京芸大に進んだ二人の若き先輩、藤本氏(45期)と渡部氏(47期)に委嘱されたが、伝聞によると藤本氏とはコンタクトが容易でなかったので、色々な連絡は渡部氏との間で為されたとされる。
●作詞が決まり、作曲の委嘱となったのは11月も半ば近かった筈であるが、それから1か月半程後の1954年暮れに完成作品が学校に届いた。 渡部氏は、当時、大学4年生であった事を考えると、この短い期間に渾身の作曲活動があった筈と推定する。
6.校歌誕生に関わった人々を回想する:
今回、私は校歌誕生物語に向き合う事になったが、それにより校歌と言うものが、想定以上に妙なる存在である事に気づかされた。 紙1枚に収まる歌詞と歌曲だけに過ぎないのに母校を同じくする何代にも渉る人々の心(知情意)を湧きたてる、そんな存在である事に気づかされたのである。
そして、それは無形文化財のように人を介して創られ、人を介して伝承されていくものであろうかと思わせる。
●作詞:針本武義先生:
◆校歌誕生への最大の功績は針本先生による渾身の作詞である事には論を俟たない。そして、それが明らかになってから、あの何時も厳めしい針本先生が生徒に交じって校歌制定審査に応募された事、更にその詞が明るい未来志向のものである事に驚いたとする感想を多くの人から聞かされた。
◆調べてみると、先生の東高在任期間は1950年から60年までの10年の永きに渉っているので、それなら教えを受けた生徒が多いのは当然であった。
◆ご子息の針本康弘氏は私と同級であるが、卒後、再会する機会はなかった。 ただ今回、校歌作成に当たって、先生が何か言い残していなかったか聞いてみたい。
●作曲:渡部恵一郎氏(47期):
◆同氏については作曲依頼の以前から、同級生であった姉から以下の話を聞いていた。東高ではピアノの達人とされていたが、天下の東京芸大ピアノ科を受験するのは苦しい所があるのではとして、楽理科を受験して合格したと。
◆なお、私事になるが、校歌制定の10年後、縁あって渡部氏は私の妹(55期)と結婚する事になって、私は義兄弟の関係になった。 それにより、新たに知った事であるが、同氏は米子が生んだ日本を代表するバイオリニスト鷲見三郎、四郎、同じくピアニストの五郎を伯父、叔父に持つ音楽家一族の一人だった(鷲見三郎氏に関しては、72期同窓生の作家、松本薫氏による「夢はヴァイオリンの調べ」が出版されている;平成21年度の関西米城会報にも紹介文あり)。
◆渡部氏は、その後、演奏家にはならずに、ヘンデルの研究で知られる音楽学者として大成された(桐朋学園大学教授)。
◆後年、私は同氏に校歌作成に当たっての苦心談を聞いてみたいと思っていたが、20数年前に早世された為に聞きそびれた事が悔やまれる。なお雑談の中で、学生時代からラジオやTVで使われる音楽小品の作曲アルバイトをしていたと語っていたので、作曲はお得意であったのかもしれない。
●校歌制定活動推進者:塚谷 誠氏(51期):
◆1954年前期生徒会で校歌制定活動の中心人物であった。 同氏は早稲田政経に進学、次いで東レに就職、最後は子会社社長として奮闘された由。
◆退任後、関西米城会では平成17年から20年まで、会長として会を引っ張ったが、特に平成17年度には沈滞傾向にあった関西米城会を立て直すべく「活性化プロジェクト」を立ち上げて会運営の刷新に努められた。 東高生時代から最後まで母校を愛した人物であった。
●校歌制定委員会・委員長:山田 章氏(52期):
◆校歌制定活動の後半4か月の実務を担っての寄与は前記した通りである。
◆同氏は慶応大経済に進学し、卒後は時計の精工舎(セイコー社)に入社し、後にセイコーアメリカやセイコー・シンガポールの幹部や責任者として、同社の海外展開に大きく貢献したとされる。
◆退任後は東京米城会会長を務めながら、会社時代の経験を活かして米子や鳥取県の地方創生や経済活性化にアドバイザー的役目を果たしていた。
◆上記の塚谷氏と同様、東高生時代の校歌制定活動を経験し、大学で学び、企業で活躍し、最後は同窓会活動で人生を全うした。 東高校歌が人生の伴奏曲ではなかったかと思う。
●校歌制定を発議した大坪功明氏(51期):
◆同氏の熱い心の発議がなければ、事は動かなかったかもしれない。 同氏はその後も「校歌が命」と言うような人生を送られた。
さいごに:
勝陵への寄稿文には、「このような秀歌が、生徒会の取り上げから僅か8か月で学校に届いたのは奇跡的な出来事であった」と記した。 しかし、補遺顛末記を改めて書いてみると新校歌は「棚ぼた式の授かり物」ではなく、必然性の連鎖の中で「生まれるべくして、生まれた」宝物であったのでないかと思うに至った。
今は、その校歌が、卒寿、白寿の節目を超えて末永く、歌い続けられる事を願っている。
以上(2026/1/13)