自分の陣地での一人称
kana.icon
kana.iconの場合「自分」ですね
外では「私」を使うことが多いけど
そうなんですね、希少というイメージsta.icon
男女問わず「俺」は多いイメージだった
男尊女卑的な家庭だと「女の子が俺とか言わないの」とか言われて矯正されるけど
自然とそうなった感じですか?あるいは何らかの契機があったとか
一人称の変遷
外
小学生までは自分の名前
中学生になって「僕」や「俺」を使っていた時期もありましたが、母親に「僕はやめろ」と言われた気がするkana.icon
当時は「私」というのは女が使うものだと思っていたからいやだったので、僕や俺をつかっていた。それがダメというならということで、自分の名前を使っていた。
つまり外では引き続き「kana」
高校のころには自意識的なものが芽生えて、外でも自分の名前を一人称で呼ぶのはイタいな…という考えが生まれ、また、同時期に「べつに「私」って、女だけじゃなく、フォーマルな場では男も使うな。みんなつかうな。つまりことさら女子供の語彙ってわけでもないな」という考えから、kana.iconにとってのフォーマルな場=家族以外の他者の存在する場では、「私」を使うようになった 実家の家族との間
今でも引き続き自分の名前が一人称。一生これだと思うw
パートナーとの間
愛称。
実際に使っているものは出さないけど、たとえば「woodchuckは〜」というようなイメージ
自分との対話の場
だいぶ小さい頃から「自分」。
なんとなく、一人称というのをkana.iconは他の人との間で自分を特定するために使うもの、のように考えているような気がする つまり、自分一人しかいない空間ではそもそも一人称はいらない…というか、「自分はどういう存在か」としめす必要がないように思われる
一人称は自分はどういう存在かをしめすもの
kana.iconのなかでは
私、はフォーマルで、「他人」とのあいだでつかうもの
主体性を強調しすぎない、自己主張をしない表現のように思える
一番フラットな表現
特別親しい1対1の間では、自分と相手の合意した自分(kana)像に合わせた表現が使われるべき
俺、は一人前の主体としての自分であると主張したい時に使う表現
強く自己主張をする形。
ボク、僕、は半人前の主体だと主張したいときの表現(あなた様ほどではないこの小生、というような、ある種のへりくだりの表現)
だからこそ、先輩と話す時や目上の人と話す時に「私」以外で使えるものになる
ワイ、ワシ、は逆張り的な表現、おちゃらけをしめしつつ、主体性を提示できる表現
普通に使われている一人称であらわされるような枠の中には囚われたくない時に使いやすい
オタク系の人は、既存の社会的な自分の立場に馴染めない人が多いと思う
チンチンは生えてるけど、ジェンダーとして「男らしく」とされる振る舞いをしたり考え方をすることに違和感を持っている人だったり
あるいは既存のヒエラルキーで下位におかれがちであったり
他人というほどでもないがパートナーではない、仲のいい友達との間でチョケた、カジュアルな、表現として使うことがkana.iconの場合よくある
自分の名前を一人称にするのは、子供がやりがちなことからもわかるとおり、他者を一切想定せず、自分と完全には切り離していない「母親」的存在との間で、自分と相手をことさらに「あなたとわたし」として区別せず半一体の存在としてみるという前提のもとで使うというイメージ
だから、(すくなくともkana.iconのなかでは)友達の前で使うのは、「自分以外の他者が存在しない世界」(相手を無視した、自己中心的な世界)にいますと示してしまうようなイメージがある
だからこそ、中高生くらいになるとこのタイプの女子は「ぶりっこ(=自己中)」というかたちで揶揄されてしまうのではないか
とくにこのどれも当てはめない場合、なんというかぴったりくる一人称がないように思える
それでも何らかの形で主語を取らないといけないため、「自分」という表現を(kana.iconは)しがち
そして、コセンス上では、「自分」と言うことと、ユーザーアイコンを使うことが等価である気がする
つまり、kanastaや小屋でも、kana.iconは「自分」と言っているらしい。
文章で、そして半匿名の場では、友達との間でもワイ、ワシ、を使わなくても自然である気がする
おそらく、自分との対話ーー日記や、他人に見せることを強く想定しないブログやSNSなどでも、「俺」を使う人も多いと思う
自己主張があるのだろうか。
そしてたぶんkana.iconはそういう時に、ことさらに自分と世界を分けていないんじゃないかな。
世界と対峙した自分(=俺)という主体を樹立する必要を感じていないというか。
ここには自分しかいないし自分が思ったこと考えたことが全てだから自分=全てという…
見せる・見られる可能性を想定しているかどうかの違い、はありそうですねsta.icon
kana.iconさんは想定してない感じですかね
僕は想定してます
割と常に誰々を(主語でかいときも多い)わからせてやる!的な妄想が混ざる
(プライベートな場所でも)常に読者を想定して書いてるってのもあるなぁ
/staみたいに何でも書くマンだとやばいこと書いたら終わるので日頃から鍛えておく必要がある 自分はどういう存在かをしめすもの
面白いですsta.icon
そういう使い方もあるのか
逆に?僕は場の雰囲気で使い分ける感じでした
会社は公的な文脈に近いので「私」「自分」
でも日頃つるんでるメンツや上司やよく知った顧客なら「僕」
他人とコミュニケーション取るときも基本的に「僕」
それ以外は「俺」(デフォルト)
みたいな
あるいはkana.iconさん的に捉えるなら、常に自己主張したいことの表れかもしれないw
実際俺にはそのきらいはある
いや、案外差はないのかもしれない
場や相手に応じて使い分けるのが本質
+1kana.icon
kana.iconさんは自分の存在の示し方を使い分ける、sta.iconは機械的に場が望んでるものを使う
sta.icon
契機は正直覚えてないけど、陰キャにとって「俺」を使うのはハードルが高くてどこかで背伸びした覚えはある 父のことを親父と呼ぶときみたいな
たしかにいつ「俺」にするのかは難しそうkana.icon
kana.iconの弟はずっと「僕」だった
途中で「俺」にしたことがあったが(たしか小学生くらいのとき?)そのときは母親が「俺」はやめろと言っていて僕に戻ったのに、中学後半くらいから父親が、弟まだ「僕」だけどそろそろ「俺」のほうが……みたいなことを言いだして(どっちだよー!ってかんじww)、高校くらいからは家でも外でも「俺」になってた
たぶん中学くらいから外では「俺」だったのかな?
弟はその形で早々に一人称自分の名前は卒業していたけど、kana.iconはなんだか照れくさいのでずっと一人称自分の名前
一人称自分の名前は女性に多いと思う(というか、男性の場合それが許されていないような空気感は感じる)