分人主義的結婚論の先駆者フーリエ――『愛の新世界』とヘーゲル『法の哲学』における遺産相続の問題……藤田尚志
フーリエは生涯独身。
フーリエとヘーゲルの変換関係
系列法則を評価しつつも、微妙な評価。
p165 他のいかなる関係によっても結びつけることのできない初項を、反省によって比較することから生み出される系列を「弁証法的系列」と呼び、その用い方を教える特別な理論を「系列的弁証法」と呼ぶことにする。
ヘーゲルは正・反・合の論理的三拍子を踏んでいるが、フーリエは最小の系列である二項系列による二拍子的なものとして評価。
マルクスとエンゲルスはヘーゲルとは別の弁証法を求め、フーリエの系列主義にたどり着いたと言う。 系列主義のほうが数量化された科学と噛み合うという利点がある。
「数学的社会主義」における重み付け
フーリエは純粋な二項分布を使わず、微妙な偏差を与える。
ワルツ的三拍子で論理学―自然科学―精神哲学として全宇宙を包括するヘーゲルと対象的に、微妙に偏差をくわえたマーチ的二拍子で無限に複雑な郡を形成していくのがフーリエ。
現在の文明社会とそれを構成する「壊乱的集団」は情念の非合理的な抑圧が原因である。
情念を解放した状態で調和する社会を作っていくほうがより合理的じゃね?みたいな感じ 理性的に抑えるのではなく、蝶々情念を強く持っている人には別の労働形態、別の社会的結合形態を考えたほうがいいのではないか。
深刻な葛藤が生じる前に先回りしてそれが生じない回路を作り出すという発想。
p169 情念が引き起こすかに見える悪は、実は情念を非合理的に抑圧した結果にすぎない。[⋯]「どうにも生じてしまうものに対しては大目に見る手段を見つけなくてはならない、という結論にならないだろうか。いわゆる悪徳が[⋯]要するに至るところで支配的であるなら、人間本性から分かちがたい弱さに対してむやみに説教を垂れるよりも、それを利用するのに全力を尽くすべきなのだ」
悦びと直接つながっている味覚が一番大事、触覚(性的交わり)も大事 第二基本情念(友情、恋愛、野心、家族愛)のなかで、恋愛のみ「人数が多ければ多いほど良い」とならないことを指摘。 恋愛の系列弁証法
フェミニズム的思想の先駆者「女性の社会的地位の向上が社会発展の一般原理である」 現状の恋愛の打破
1、精神的な愛と性的・肉体的な欲求(唯物愛)の分析
現代における唯物愛の抑圧は、精神的な愛を尊重しているように見えるが、「粗野ないし動物的な愛」が「疑いなく、男女を問わず、食への欲求と同じほど緊急に必要なものになりうる」ということを忘れた机上の空論である。
納得できないのもわかるが、その気持も情念であるとすれば?
唯物愛を抑制したい人は、自分の嗜好を押し付けているだけなのではないか。
食欲を十分に満たした後、まだ食物のこと考えるか???
考えてるってことは身体的欲求が充足されていないということ。
唯物愛の基礎があって心情愛も無限に洗練される必要があると認知されるようになる。
2、自らの嗜癖をよく理解し、存分に発達させる必要がある。
嗜癖の直視と、差異化、多様化してくことの社会性。
偶然性が大事なのはわかるが、昨今のラベリング、レコメンドの快適さ知ってるだろ?
嗜癖に即した複数のパートナーで唯物愛を満たす基盤を作る。
ヘーゲルの結婚論
うつろいやすい面を消し去り、情熱の偶然性や好みの偶然性を超えた共同体の精神が愛である。
情熱を排した親の勧めによる結婚は「より倫理的」
弁証法的プロセス
お互いの自己愛→お互いによる否定→家族における一体化によって自分のことを知る。 フーリエ的な視点から見るとヘーゲル的な論理は内側から自壊している。
個別性や偶然性への愛情を最終的に放棄し、市民社会、国家へと向かう普遍的な倫理の出発点となることを結婚に求めているが、偶然的で不安定な結びつきが昇華され、パートナーの一種の脱昇華ないし、置き換え可能性が生じるような自体を人々は求めない。 フーリエの結婚論
一夫一妻制=単婚は結婚制度の中で最も単純な形
無限大の恋愛の絆:どこまでも関係を拡大し同一化・融合を進めていくこと
無限小の恋愛の絆:どこまでも嗜癖を差異化し区別を増やし続けること フーリエは一夫一妻制の廃止ではなく強制の撤廃、結婚制度の複線化、多様化を唱えている。
単婚を望む人、複婚、全婚を望む人、その都度切り替える人がそれぞれ選べるようにするのが行きやすい社会では?
兼有的不貞
多婚:複数の恋愛を同時に営むこもの
諸情念を自由奔放なカオスにしておけばいいというのではなく、現在カオスとなっている情念の経済に系列と秩序を与える必要がある。
契機的不貞:移り気な恋愛のこと
単純不貞
恋が終われば以前愛した相手を忘れ去ってしまう不貞
絆の数を減少させるため悪徳
複合不貞
恋が終わった後もその相手への友情を保ち続ける不貞
絆の数を増大させるものとして美徳
これを通して、従来の家族の絆を変形、拡大し、兄弟愛的な結合の到来を目指す。
時間・記憶・生の経験の尊重が見て取れる。
p187 かつて愛した人と過ごした時間、楽しかったり悲しかったりした経験、その記憶をなかったことにしないという点に倫理性を見てとっているからである。
かつて愛した相手がいても、次の相手と出会った瞬間、過去をなかったことにしなければならないのはなぜか。
盗られるのが怖い。現在の所有が過去の尊重に優越する。 この点の倫理性の欠如を指摘する。
確かに。
フーリエ的家族
p189 家族愛すなわち家族の絆も、われわれの慣習では無限小の飛翔、極小の婚姻カップルに制限されているので、合法的な絆以外で生まれるどんな子どもも認知しないし、大多数の夫婦は家庭内では不和に満ちた秩序となる他なく、外的家系すなわち傍系家族では憎悪と嫉妬にまみれた秩序となってしまうのである(NMA 469)
家族の絆の固有性、個人の財産と社会の関係などを問うことになる。
ヘーゲル
当時のプロシアの法律はローマ法からの流れで遺言相続主義を採用。ヘーゲルはその恣意性、偶然性による個別性(党派性、利己性)とその非倫理性を問題にする。
仲間に対して遺言で資産を残すのは下心混入の可能性が捨てきれない。
均等相続
家族は倫理的なものであるので、差別づけをしないするべき。
家族が倫理的だというのが無理あるくね?という問題がある。
ヘーゲルは家族関係で親密性がどうしても生じないという偶然性を排している。
法の進化にも恣意(情念)が影響を及ぼしていることについて、司法活動によって退けると書いており、情念引力には身を委ねない。
近代以前的な貴族的大家族の否定として、個人間の葛藤から弁証法によって核家族をつくる。
フーリエ
均衡遺言
縁の法則:調和世界においては不貞こそが最も博愛的なものである。
多婚愛の発現期に県警を持った男女の恋人たちに遺言で資産のうちの何割かを均等に分ける。
人生の中で恋愛関係にあった相手に対する感謝を形にするために配分的に遺贈される。
財産の不平等を前提としつつ、単なる博愛では生まれないような人間の恋愛の熱狂を利用した再分配機構となっている。 「これが自由恋愛の非常な実用性」とのこと。
家族の概念を限りなく拡張したうえでの平等。
富裕層が卑劣、貧困層が卑屈になるような「隷属関係」がうまれるリスクを考えてしまうが、すべての情念が「名誉」の統治下で高次に発展している調和世界では文明世界よりもはるかな人間関係を持ち、必然的に感謝を述べる相手も増える。
ヘーゲルの近代的核家族を拡大・包摂した形で、葛藤(嫉妬)を先回りによって回避し、肯定的な感謝という情念の幻想によって家族を形成する。 不貞を恐れる理由
p196 「新しい女性が現れて新手としての魅力によって、彼女たちのいちばん大切な所有物である愛情を、まさにそれが所有し得ぬものであるがゆえに奪ってしまいはせぬかと恐れる」不安である。
この不安はそれぞれへの愛情の異質性・特質性を独占所有や優先的束縛によって等質性に変化させてしまうことから起きる。個々人への愛情は比較可能なものでなく、互いに排他的なものでもない。
p197 「真の愛情とは、相手の独自性を尊重し、その人の好ましいいくつかの特質に執着するような性質のものであるはずで、所有の繁栄似すぎない人格などという偶像にしがみつくことではあるまい。独自性は排他的ではない。なぜなら独自性には全体性に向かう要素がはじめから欠けているからである」
この議論から見ると、フーリエの兼有的不貞は恋愛の時間の複線性に注目しているといえる。
フーリエの言う基軸愛は、「大変高貴で、しかも排他的ではない貞節」であり、移り気や不貞といった他の恋愛と和解し、一体化するがゆえに「複合貞節」である。
文明社会において情念が非難される最大の理由は「〈個人〉は不変の同一性・個体性を持つはずであり、持つべきという文明人の信念に反する」ということ。
ヘーゲルにおける結婚論の鍵は、人格の止揚、契約の止揚にある。
客観的な結婚の出発点である両人格の自由な同意(夫婦という法に認められた人格を形成することへの同意)と、主観的な出発点である両人格の特殊な愛情や両親などによるはからいを区別する。
同意に基づく法人格の形成によって個人の願望は制限されるとしても、一体になろうと試みることを通じて実体的な自己意識を獲得するからより自由であるというロジックで自己の放棄と自由を両立させようとする。
均衡遺言は情念の総計で財産の総額を分割するということは、その人の人生自体も分割されているといえるのではないか。
単なる財の贈与ではなく、自分自身を分割し分有すべきものとして捧げるということ。 情念の束である人間を時間の相においても切断することで、分人的倫理の元にヘーゲルの弁証法を先回りする。
結婚の創造的進化
ここまで議論してきた多婚的形態は歴史的に先駆的形態がないわけではない。
アメリカの社会学者オニール夫妻が1973年に出版した本 ベストセラー
夫婦が互いを社会的・性的に独立した個人と認め合い、合意の上で自由に愛人を作る結婚スタイル。
オープン・マリッジやトライアッドなどを包摂した、より広い関係性として注目されている。
特徴
1、交際状況をオープンにし、複数の人を誠実に嘘偽りなく愛する。
一対一の愛だけが正しいわけではなく、愛する人の人数は自分で決めるべきという考えに由来。
2、互いに互いを所有しないということ。
パートナーになることは相手のすべてを独占所有することではない。
所有や束縛は互いの成長を阻害することすらある。
自覚的・選択的に選び取った家族を目指す。
しかしこのような例はあれど、制度化はされていない。
選択的に結婚の型を扱い、複数的な制度は可能?
核家族が解体されたとしても、「家族」が消滅するわけではない。
血縁による大家族の復活でもなく、疑似家族や代理家族を含む講義の「拡大家族」ないし「複合家族」出現である。
ポリアモリー・ポリファミリーなどはすでに実現されつつある(?)
制度設計も可能であるだろう的な終わり方。
できるにせよ今の制度からは大改革しないといけないな。