『HANDS 手の精神史』
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(著)ダリアンリーダー/(翻訳)松本卓也/(翻訳)牧瀬英幹
単行本(ソフトカバー) – 2020/11/12
1 分裂する手――自由と自律のパラドックス
インターネット、スマートフォン、PCによって彩られる新たな時代は、私たちの存在や他者との関わり方に根本的な影響を与えたといわれている。なるほど、たしかに日常生活の根幹をなすデジタル技術によって、空間と時間という古い境界は崩壊したようにみえる。私たちは、即座にコミュニケーションをとることができるようになった。相手が遠くにいたとしても、近くにいたとしても、コミュニケーションは同様に可能であり、他の大陸に住む身内とスカイプすることもできるし、隣のテーブルに座っているクラスメートにメールを送ることもできる。画面にタッチするだけで、ウェブを介して動画や写真を流すことができるし、公私にわたる生活を事細かにソーシャルメディアに公開することだってできる。人々が電車やバスやカフェや車のなかで行っているのは、画面をタップして会話する、ブラウズしてクリックする、スクロールしてスワイプする、といったことだ。
これらの変化の結果として、二十一世紀の私たちは新たな現実に住まうようになったと、哲学者、社会理論家、心理学者、人類学者はみな異口同音にいう。たとえば、関係がより浅くなったとか深くなっただとか、より長続きするようになったとかその場かぎりのものになっただとか、より脆弱になったとかしっかりしたものになっただとか、そういったことが語られている。多くの職場がヴァーチャルなものになるにつれて、「9時5時勤務」という枠組みに当てはまらない生活を構築する新たな可能性が生まれてもいる。私たちがどのように理解しようとも、これらの変化が実際に生じたのだということ、つまり、世界は以前とは違う場所になったということ、デジタル時代は疑いの余地なく新たなものであるということを誰もが認めている。
しかし、人間の歴史におけるこの新時代を、少々異なる角度からみればどうだろうか? 現代文明がもたらすものへの新たな期待や不満に焦点を当てるのではなく、今日の変化を、「人間が自分の手を使って行うことの変化」として捉えてみるとすれば? デジタル時代の到来によって、私たちの経験のありさまが変わってしまった例も多いかもしれない。しかし、この時代には、もっとも明白であるにもかかわらず無視されている特徴がある。それは、これまでに前例のないほどのさまざまな方法で、手を忙しくしておくことができるようになった、ということではないだろうか。
手のアンコントローラブルさ
フィクションの多くで手は登場人物の意識的な決断と反した行動を取る
最たる例としての『アナと雪の女王』エルサ
『ターミネーター』ラストシーン、体が破壊されたあとでも手だけで前に進む。純粋な目的としての手。
現実でも手が勝手に動いてしまうことは多い。
能動性や力のメタファーとしての手
聖書では最も頻繁に言及される体の一部である
古代でも能動性を伝えるのに役立つ道具であると認識されていた
アナクサゴラス:人間は手を持っているがゆえに知性を持つ。
アリストテレスの系譜の人たち:知性を持っているがゆえに手を持つ。意思を持続させるための道具に過ぎない。
神経学のエイリアンハンド(アナーキックハンド)
手が自分の身体に属しているように経験さはするものの、手が命令に従わない状態
クルド・ゴールドシュタインの論文
自分と敵対するように感じるエイリアンハンドを子どものように扱うことで平和がもたらされた。
エイリアンハンドを持つ当人が、従順ではない手を操っている第三の手の存在について考えることがある。
手が所有や自律という観念から切り離しがたいものであるということを意味する。
能動性と選択のパラドックス
自由であることや自分自身で選択を行うことはむしろ義務であり、自由と選択は外からやって来る命令のネットワークに組み込まれている。
現代の依存症の広がりは「私たちは自分自身を完璧にコントロールすることができる」という幻想への依存によって説明できる。
p22 私たちが何かをしようとするときには、手が作動する必要がある。だが、[エイリアンハンドの例のように]実際の経験的な手が私達の意思にそむくときですら、手は作動せずにはいられないのだ。手の能動性におけるこのようなパラドックスは、現代において「自由」という観念が奇妙に変化していることにも反映されている。私たちは、自律することをつねに奨励されているのだが、その奨励は、その当の自律の可能性を剥奪するような能動性によってなされているのである。
『マン・オブ・スティール』
『メリダとおそろしの森』
自由な選択と個人の尊重の重要性のスピーチはホールの後ろの熊=母がいて、メリダを誘導している。
p24 自律した行為とは、実際には、腹話術によってなされる行為なのである。
2つの生の分離
「生き延びよ、長生きせよ」という命令が21世紀にもたらしたもの
これ以前は現世/来世という信仰があったが、今日においては、純粋に生物学的な生/現実の経験的な生に引き裂かれる。
アシャヤ・キングの事例
子どもの命を守る生命維持システムから見ると、母親はシステムにとってのノイズとみなされることが少なくない。
p30 正しく食べることや運動することは、喜びではなく、むしろ義務として感じられている場合もある。そのため、一方の生は、他方の生がもつ純粋で抽象的な概念のために犠牲にされる。イムラックがラセラスにいったように、「あなたは生き方を選択しているというけれども、生きることを怠っている」のだ。
バタイユ的な感じやね
ハンドクラフトの流行について
ヴァーチャルな世界への対抗として手を使ってものを作ること。
グローバル化されたブランドのマーケティングやプロモーション活動もまた、ハンドクラフトの活動のように、各人の独自性や創造力、自分の時間の重要性などを強調する。
p31 つまり、その手作業は、個人の選択の重要性にもとづくのであり、自律性の感覚と喜びの探求を言祝ぎ、自己改善を目指して行われているのである。ここでの要点は、これらの活動が本質的に良いものだとか悪いものだとかいうことではない。むしろ、現代のライフスタイルの達人がオススメする手作業でつくられた特別なものと、大量生産された商品やサービスのあいだの対立は、幻想にすぎないということだ。
慎重で繊細な手作業が、最も残酷な独裁者と密接に関係しているという事実がある。
ヒトラーの水墨画、毛沢東の緻密な書道。
ここ気になるもっと知りたい。
2 自律する手――手と口の病的な関係
幼児の自律
一般的に語られる青年期の自律より前に、手と口の間で自律の戦いが繰り広げられる。
把握反射:手のひらが刺激されると手が閉じるという反射。指伸張反射では、指の背面に触れられると手が閉じるという反射。
ピアジェは完全に自動的な反射ではなく、自分に接触することと、自分以外の外部に接触することを区別できることを確認。(?)
口の動きと手の動きの同期。
初期の研究者は、握るという行為を「操作」ではなく「体内化」に関係するものとして考えていた。
フライバーグの事例。少年が爪を立てるのはサディスティックな行為ではなく、どこにもいかないでほしいという恐怖
3 掴む手、放す手――愛着と喪失
掴むことへの重要視と放すことへの軽視
反射である掴むことに対して、放すことは学習する必要がある。
ものを落とすことは技術である。
子どもが行う初期の遊びの多くが、握り締めることと手を放すことのあいだのゆらぎにある。
p73 言語においては、投げつけることと手放すことの区別が維持されているといえる。というのも、私たちは、怒りや強い愛着を乗り越えることができるようになったときに、自分が悩まされていたものを「手放すこと」ができたという風に語るからである。手放すことがそれほど頻繁ではないという事実は、この過程がどれほど困難なものであるのかを示している。皮肉なことに、私たちは、現代の文化のなかで絶えず「[前に]進め」、「[過去を]手放せ」と指示されてはいるものの、より支配的な命令を包括してみると――職場での無意味な研修からジムでのトレーニングにいたるまで――自分たちがしているあらゆることにもっと愛着することを要求されている。
就活の志望動機に必要とされる熱量とエネルギー。興味関心と関係して継続的に機能するものではなくいつでもオンオフできるものである必要がある。
ここにあるのは「愛着と喪失」のリズムではなく「愛着と愛着」のリズム。現代、抑うつ状態や意欲喪失によってブレーキがかかるのは、喪失感を手放したり反芻する時間や空間がないことに起因する。
官能的な満足への探求は手の動きに結びつけられている。
私達の身体はその「過剰」を絶えず追放しようとしている。
都市衛生の「排水」、瞑想の時代の「空になる」、身体の「デトックス」は過剰の問題の定式化にすぎない。
聖杯を手に入れることと、指輪を手放すこと。『ロード・オブ・ザ・リング』。
欲望:自分を超えたなにかに手を差し伸べること
欲動:自分の内部の高揚を弱めようとすること
p81 手を使わせるための技術は、欲動がもつこのような残忍な体制を合法化してくれる。指でタップしたり、こすったり、スクロールするようになるにつれて、私たちは、ジムでの時間や、スポーツや運動といった、よりわかりやすい身体の実践にとらわれなくてすむようになった。私たちはどこでも手を使うことができるようになったのである。だが、多くの人々にとって、この「できる」は、実際には「しなければならない」である。現代人はもはや部屋でゆっくりすることができない、とパスカルはいった。それは、情報や娯楽が過剰になったからというよりも、私たちを飽和させるこのような身体の過剰を放出しなければならないからである。
4 社会化される手――手を暇にさせておくことの危険性
5 鎮める手――感覚を取り除くための刺激
6 暴れる手――暴力行使の能力
7 言葉と手――手を使わせるテクノロジーの今昔
訳者解説