『道徳的責任廃絶論: 責めても何もよくならない』
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単行本 – 2025/2/17
まえがき
道徳的責任というシステムへの攻撃の書。
自然主義的・科学的な世界観を基盤とする社会システムと道徳的責任は食い合わせが悪い。
道徳的責任論争は何をめぐって争われているか?
p16 本書が標的とするのは、特別の報賞および[刑罰を含む広義の]罰を正当化するものとしての道徳的責任である、ということになる。つまり本書で言う道徳的責任とは、〈とがめることとほめること、称賛と非難、賞と罰、このいずれかが適切であるような個人の特定を正当化する何か〉を指している。
p17 本書の目的は、道徳的責任というシステムを、その根もとから枝先まで、すべてを廃絶することにある――私たちは決して、何者をも、道徳的に責任ある者だと見なすべきではない、ということだ。
あらゆる道徳的評価の排斥を含意するわけではない。
本書の問いかけ
1.システムそのものに向けられた〈およそ何者かを道徳的に責任があるとみなすことは正当化されるのか?〉という問い。
正当性を外部から問題にする問い。
道徳的責任の条件についての「内在的な」議論には立ち入らない。
2.〈人々の性格が美徳や悪徳を備えることは可能だが、だとしても人々はその性格ゆえに賞賛や非難に相応しいということにはならない〉
3.〈道徳的責任のシステムは本当に正しいシステムであるのか?〉
ある人物に罰を与えることが社会システムに利益があるとしてもそれは正しいのかは問われていない。
p23 道徳的責任にもとづく実践というのは、より安全な社会と、人々の行動に改善をもたらすための有効な方法ではなく、むしろ反対に、より優れたシステムの実現を妨げ、多大な苦しみを引き起こす実践である。
仮によりよい社会を作るための実践だとしても、正当性の証明にはならない。
〈道徳的責任とは説明能力に関わるものだ〉という立場。ある行為に対する道徳的責任があるとされるとき、その行為について説明可能であるということを説明できるということという立場がある。わりと説得力もある。
しかし説明能力は道徳的責任の基準を満たすものではない。
自分が気づいていない要因の影響を受けて行動しつつも行動の要因が影響であることを認めないという社会心理学の研究結果 道徳的悪行を行った人が、自分の認知的な短所とその理由を説明できたとして、本当にその行動に道徳的責任があるのか?
道徳的責任への信念の根深さ
道徳的責任は深刻な異議申し立てを受け付けるものではないと人々がみなしている理由。
道徳的責任を擁護する哲学者たちも、その論拠が道徳的責任に対する疑いを取り除くほどに決定的なものだとはみなしていない。
道徳的責任への確信は、合理的な論拠ではなく感情的なものに由来するのでは?
感情的な由来だからといってそれを理由にして良くも悪くもないが、感情に由来することを自覚することで異議申し立てを行える可能性を真面目に受け取ることが容易になるかも。
率直にこう認めるべきだろう――私たちが、伝統的な自由意志概念と似た何かを指示しようとするときの、語られざる、一つの強い動機として、世界にはびこる悪漢たちに対して「その者に相応しい報いを得させること」があるのだと。そして間違いないことだが、そうした悪漢たちには、私たちによる糾弾、批判、および――健全な法体系が機能しているならば――刑罰が、実際に相応しいのだ。私たちが住みたい世界とは、刑罰のない世界では決してない。(Dennett 2008,258)
道徳的責任に対しる熱烈な信念の源泉は感覚的なものにあり、それは「悪事をなし、害を引き起こした者は苦しみを被るべきだ」という感覚である。
p31 中には、男らしさの感覚が幅広く行き渡っており、それが女性の従属的地位を促進するように働いているという状況は、かつてその感覚が何らかの生存上の価値を備えていたことによるのだ、という想像をする人がいるかもしれない。だがこの場合でも、進化のある段階で有用だったかもしれないものが、現在では適応的ではなくなっている、ということは明らかだ。同じことが道徳的責任への信念にも成り立つかもしれない。
生物は攻撃を受けたり脅かされたり傷つけられたりすると「屈従ストレス」を経験する。しかし、攻撃をうけた個体が、他に攻撃できる個体がいる場合にはそのストレスは消失する。(Virgin & Sapolsky 1997) 互酬的なしっぺ返しが好まれるのは特段うまくいくからではなく、それで事足りるからである。反撃という反応は、社会の制御の道具であり、現状を防衛するための手段として、唯一利用可能なものであったのであり、ないよりもマシだった。
その欲求が正当化されねばならないと確信するほどに根深く、その欲求を感じ取っている。
道徳的責任への信念の体系的な性格
道徳的責任によってドライブしているシステムの内部から否定したとして、道徳的責任を否定することは真面目に取り合うのが困難なものになる。
道徳的責任を支持する多彩な論証があるということは、妥当な一つの論証がないことを示している。
第二章 道徳的責任反対論の根本論証
道徳責任を退ける自然主義者
道徳的責任は奇跡を要求する。
私たちが責任のある存在であるとしたら、神のように、その行為が物事の唯一の原因になる必要がある。
これは自然主義的な体系においては無理。
両立論
現代哲学の流行になっている。道徳的責任は自然主義的世界観と両立しないという考え。
p45 「有責性というものの可能性そのものに対する懐疑論が、ある絶対的理念――すなわち、全面的な〈神の御前での罪人〉という概念――への場違いな畏敬の念から生じる。そのような条件はこの世界においては決して満たされないという事実に惑わされて、私たちの道徳的責任という制度の至当性に関する懐疑論に陥るべきではない。」
道徳的責任成立のハードルを下げるために、成立させるのに必要なコントロールの力がどのようなものかを見直すという進め方。
非両立論の基盤的発想。
人々が異なったと行動を取るのは、究極的には自らはコントロールできない因果的諸力の産物であり、全ては運である。そのため道徳的責任は誰にも成立しない。
自分自身を作り出すことの不可能性
p56 究極的なところでは、私達は進化の歴史、遺伝、文化、条件付けによる込み入った歴史の産物なのである。それゆえ、私が卑劣な人間であるとしても有徳な人間であるとしても、私がそういう人間であるということは私自身が作り出したことではない。
危害を及ぼすものでもないこと、他の人が全く怖がっていないことを知っていて地下室を怖がっている少女が、怖くなくなるまで地下室に繰り返し行くという計画を立てて恐怖心をなくしたとする。これは「意図的な自己改変」が可能である例。
責任概念やそれと結びついた自由な行為の概念とは縁を切るべき。
p61 実践的自由よは、それがもし人間に可能な性質であるならば、むしろ一つの「創発的」性質なのである。もし私たちの[全員ではなくても]一定数が自由な行為者であるならば(つまり、選択のような心的行為を含むような、広い意味での「行為」において自由に行為する行為者であるならば)、かつまた、わたしたちの誰も、人生のはじめからそうした行為を成しえたわけであるならば、そうでなければならない。(Mele 1995,224-225)
道徳的責任に基礎づけられない自由の説明。
認知的吝嗇(りんしょく):思考すること――とりわけ、注意深く徹底した抽象的思考をすること――に楽しみを覚えず、決意に要する時間がより短く、熟慮の度合いがより少なく、重要な細部の全てについて、より注意を払わない傾向がある。 常習的認知者:思考に喜びをおぼえ、注意深く徹底した熟慮に没頭し、決意を固める前に、より詳細に、より深い反省を行う。 幼少期の認知欲求の違いものちのちに影響を与える。
幼少期の認知欲求からそれぞれの性格が形成されていくが、その最初期は自分で「選択」することができない。
究極的責任を支持するケインの論証
「神の御前での」究極のコントロールなるものを自然主義の中で確立させる。
非決定論の取り入れ
自由と道徳的責任は「自己形成行為」が現実に存在することを要求する。
両立できない複数の行為への意志を抱いている時、生じるのは一方だが、どちらにしてもそれは意志した行為であると考える。
道徳的責任を否定しながら自由意志を支持することのナンセンスを超える必要がある。
しかし哲学者の中でも一般的な2つの要素を結びつけることで説明ができる。
〈決定論(自然主義)は、自由と自由意思についての豊かで満足行く説明と両立する〉
〈道徳的責任は決定論/自然主義と両立しない〉
p82 リバタリアンたちは、自分たちのリバタリアン的理論が、自由意志と道徳的責任の両方に支えを与えるのだと強く主張する。両立論者たちは、決定論者の見解が自由意志と道徳的責任の両方に適合すると信じている。ハード決定論者たちは、自由意志と道徳的責任が両方とも消滅することを、決定論は示しているのだと力説する。ところが、[これほど鋭く立ち会いながらも]〈自由意志と道徳的責任は一蓮托生である〉という過程はどの立場にも共通しているのだ。 自由意志と道徳的責任の結びつきの歴史
絶対の神を疑うことはできず信仰の中で自由意志も道徳的責任も入る余地のない決定論
世界をコントロール可能であるということを信じるようになった。
報復への欲望を正当化するために道徳的責任が発生。道徳的責任を擁護するために自由意志が結びつけられる伝統が発生。
道徳的責任なき自然的自由意志
自由意志を望む理由のあやふやさ
Q:なぜ複数の選択肢の中から自分自身で選ぶという能力を望むのか
循環論めいた返答しか返せない。
この回答のあやふやさは、この欲求が根本的で正当化が不可能なことを示している。
複数の選択肢に開かれていることを私が望むのは、それこそが私の信念、観念、仮説を検証する最善の手段である。(著者のまとめ)
このような正当化によって欲求するのではない。欲求が先にある。
単純に複数の選択肢を否定されることは心理的なダメージを被る性質が人にはある。
確かに、自由意志があるかどうかより、それを欲望してしまうことを考えるのは新しい感ある
そしてこの欲求は他の多くの種と共有している(人間だけのものではない!)
迷路をくぐり抜けたら餌を与えてルートを覚えさせたが、正しい道を覚えたあとでも間違ってしまうことに失望。
しかしこの結果は動物の本能としては正しい。
餌はいつまでもそこにあるかは不明であるし、捕食者から狙われにくくするという意味でも、ステレオタイプ的な「正しさ」から逸脱する習慣は偶然性への対処といえる。 ドストエフスキーは自発的選択が人間の行動に関する体系的で自然主義的な説明すべての破綻であると主張するが、「気まぐれ」に従うことの価値こそが自然主義的体系にとって核心的である。 自分の気まぐれをどこまで許容できるように生活するかを考えている自分にとって刺さりすぎる擁護
p100 このような〈複数の選択肢に開かれた自由意志〉は、シロアシネズミにとって首尾よく働いてくれるが、このネズミたちは神になろうとしてはいないし、道徳的責任を正当化しようと四苦八苦することもない。この自由は、ネズミの場合と同じ限度内で、人間にとっても首尾よく働いている。もしも私たちが自由意志についての自然主義的な説明を求めているなら、それは神の自由意志よりもシロアシネズミの自由意志によく似ている。
第四章 階層的自由意志と自然的本人性
第五章 すき間〔ギャップ〕の中に道徳的責任を求める
第六章 責任を引き受ける
第七章 自ら作り上げた自己に対する責任
第八章 道徳的責任の利益は幻想である
第九章 性格の瑕疵〔かし〕と非難の瑕疵
第一〇章 道徳的責任の否定からは何が帰結しないか
──道徳的責任なしで道徳的に生きる
第一一章 道徳的責任のシステム
第一二章 論点先取による道徳的責任擁護論
第一三章 道徳的責任は敬意を促進するか?
第一四章 究極の責任なき創造的作者性〔オーサーシップ〕
第一五章 道徳的責任なき世界
第一六章 道徳的責任の根絶は可能か?
訳者あとがき(木島泰三)