『ランシエール:新〈音楽の哲学〉』
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単行本 – 2021/5/27
1.文化大革命の後、プロレタリアはもう眠らない
ランシエールが切り込む論点は基本的に二つ
「構造」としての生産関係と「イデオロギー」の関係(師アルチュセールへの批判) p13 生産のエージェントは必ず幻想のなかにいる。生産のエージェント、つまりプロレタリアと資本家はどちらも資本主義的生産関係の単なる担い手supportsにすぎず、彼らの実践そのものによって生み出される幻想に惑わされている。あけすけにこう簡潔に述べてもよかったはずのテーゼだ。社会的実践からは偽の観念が生まれる。科学は実践特有の幻想に対し外に立つ視点からしか基礎づけられえない。(『アルチュセールの教え』、九六頁)
構造主義は科学的世界観が「外部注入」されるべきだと説くカウツキー主義の別名ではないのかと問う。 外的な視点の介入が真理の抽出、見えないものの可視化の絶低条件となる。これは、科学が知識人によって生産され、労働者階級に「教える」べき物があると主張するカウツキー主義。
人は己の欲望を知るために必ず精神分析家のもとに通う必要があり、『資本論』の哲学を知るためには哲学者による兆候的読解が必要であるとするなら、大衆の反乱は決して革命的でない。 イデオロギーについて
p18 役割の配分体型のなかで占める位置に固有の観念が配分体型の存続を保証するというかぎりでは、プラトンとデュルケームとアルチュセールの間に大きな違いはない。イデアと規範とイデオロギーは、基本的に同じ振る舞いをして、同じような仕方で社会なるものを想定する。
労働者は夜何をしていたのか。つまり分業抗うような「思考」をしていなかったのかと言う問題。
p22 この書の主題はなによりもまず夜の歴史である。労働と休息の規範的継起交代から引き剥がされた数々の夜の歴史である。そこではものごとの規範的進行が、目立たずに、荒々しくもないやり方で中断される。そのことだけですでに、不可能であるはずのことが準備され、夢見られ、生きられているのだ。手ずから働くしかないとされる人々を、考える特権を享受してきた人々に従属される先祖伝来のヒエラルキーが一時停止するのである。勉学の夜、陶酔の夜。(『プロレタリアの夜』、八貢)
p23 大衆を信頼するという口実のもとで純粋「行為」を最終審級において肯定することは、考えていないから偉いと倒錯的に居直るか、リアリズムという名の敗北主義に逃げ込むことと大差ない。
労働者はどう考えるかを問題にしないといけない。
〈考える労働者〉に耳を傾けるのはどうすればいいのか。
認識をめぐる分割
古い分割モデルは、体を動かすことと考えることを分ける。
新しい分割モデルは、労働者が語るということ自体が実践的提示になっている。
体を動かすことと考えることが一つの語りにおいて同時に遂行されている。
2.サバルタンは倫理と分子革命に反対して演技する
p32 自らを語ることが政治であり、他人による代弁はそうではないという「マオイスト」的でも「主体主義」的でも「ドゥルーズ=ガタリ主義」的でもあるその主張は、「語るに任せよ、誰でも自分のことは自分で語れるのだから」という倫理を含意しているのではない。誰でも自分のことは自分で語れるのにいくら語っても語っていないとされ、その声を聞いてもらえない機制が存在していて、この二つのこと、つまり公理的に存在が認められる能力とその公理性を否定する仕組みの衝突から、ランシエールの定義する政治は生まれるのである。 アリストテレスが政治を定義する根本に置いた排除。
ランシエールの政治観
政治はスピノザ→ドゥルーズ、ネグリ的な存在論ではない。
全てが政治である=特に何かが政治的であるわけではない となってしまう。
「間違った」集団的発話があるところにだけ政治がある。
政治は制度や審級を構成しない。それらをめぐる権力闘争でもなく、それらはむしろ政治を抑圧するものである。
倫理的共同体は政治と同時にミメーシスを排除する。プラトンによる共和国からの芸術家の追放。 3.第一美学要綱――(1)感覚的なものの分割
倫理と政治は何を巡って争うのか、「語ることができない」存在をつくりだす原―政治的にと語る存在の根源的民主主義は何にかんする差異なのか。という等の節。
p38 倫理とは「政治と芸術をひたすら共同体の倫理的導きのために同時に排除するような〈感覚的なものの分割〉」に他ならず、政治と芸術は「感覚的なものの規範的座標軸を宙吊りにする」ような感覚的なものの分割なのである。何が見えるか、何を語りうるか、誰の言葉が「まともな」言語であって誰のそれが動物の呻き声に等しいかをめぐる、境界の画定と壊乱と移動のドラマが感覚的なものの分割にほかならない。
政治も芸術も感覚的なものの分割のバリエーションである。
バディウとランシエール
p40 バディウの『倫理』はランシエールの論文「美学と政治の倫理的転回」と同じように、他者との関係における、あるいは他者としての倫理を、それがいかに他者の「尊重」を主張していていようともニヒリズムの今日的形態として退けようとする。つまり、「ここ」で闘う者たちとしてではなく、手を差し伸べるべき「よそ」にいる人間として「他者」を定置すること自体が、波風の立たない均質な「ここ」、闘いの無が支配する「ここ」を際限なく拡張しようというニヒリズムであるとして。倫理は〈無限の正義〉に対抗できないどころか共犯関係にある。
バディウは政治と芸術を出来事から真理につながる道と考え、ランシエールは美術も政治も感覚的なものの分割のバリエーションと考える。
第2章 ロックンロールの美学(芸術の美学体制における音楽―諸君、音楽を文化から守るために「ロック」したまえ 暴走するミメーシス―プラトン、ロックンロールを恐れる ほか) 第3章 鳥たちのブルース(音楽が歌である偶然と必然 リフにはじまる ほか) 第4章 平等の音楽(音楽=言葉、再び―転倒から逆転へ 知らないことを教える―「すべての人間は芸術家である」 ほか)