『アンビバレント・ヒップホップ』
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単行本(ソフトカバー) – 2025/3/7
はじめに
ヒップホップという生き方/なぜヒップホップについて考えるのか ヒップホップの黄金期/ローカライズからトラップへ
p25 まず一つ目は、妥協のない、オーセンティックな音楽、つまり音楽産業の側についたり、または様々な層に届くために自分のメッセージを曲げたりするようなことを拒否した音楽のことだ。それと同時に「リアル」という言葉には、この音楽が後期資本主義経済の不安定さ、制度的な人種差別、そして警察による若者の監視とハラスメントの増加を伴う「リアリティ」を反映している、という意味もある。
いまや自分のメッセージは社会状況に吸収されてしまった。オーセンティシティをまとったメッセージ自体が高い市場価値を持ち、後期資本主義経済の「リアル」に飲み込まれてしまっている。
ヒップホップのリアルは、ほとんどの人が負け組になるという自然状態に直面することではあるが、その上でボースティングによって価値転倒を図る。「リアル」であるための「フィクション」。
本書の流れ
第1章 リアル
p40 傲慢なまでのプライドで自身を武装しない限り、「黒人を貶め、その性根を腐らせ、侮辱し、嘲ることがながくはびこってきたこの惑星で生きていく」ことはできない。こうして見れば、KRS・ワンの言う「サヴァイバル・ツール」としてのラップが、自己肯定に溢れる尊大で傲慢なボースティングを基本とするのは必然だと言えるだろう。
Aesop RockのZero Dark Thirty
ストーリーラインを作るのではなく、押韻によって言葉をつなげる、現代詩的とも言える形式。
ジェイ・Zとケンドリック・ラマーの話法/ヒップホップはリアリティ・ショーなのか
リアリティ・ショーやSNSでの前傾姿勢の視線に晒されリアルとフェイクのフレームが歪んでしまった。
ラッパーという名の芸術家
芸術作品を通して伝えられるものは「主体性」である。
人間は何者かによって監視されて生きており(透明化)見られることで主体性を獲得する。 近代においては「神の眼差し」から「世俗の権力」による監視に移り、インターネットやSNSの公衆監視がある。
世俗の権力による監視は過剰なようで完全ではなく、現代の主体は「部分的な」主体化を余儀なくされる。 これにより、自分の欲望や身体が他人から見られないことを望みつつも、同時に完全に透明化したいというアンビバレントな感情を抱く。
現代芸術によって実践されるのは徹底した自己透明化であり、自己の主体化である。
ラッパーは自己顕示のアートにコミットしてきた専門家集団であると言える。
第2章 オーセンティシティ
アメリカの影、再び/white room日本語ラップという片割れのバンズ 日本語ラップVS. J―RAP/ビートとジャズの出会い
ヒップホップにおけるジャズネタは現代音楽の系譜として考えられる。「何でもあり」のアヴァンギャルドな側面。「文化系」
テリー・ライリーの"Music For The Gift"の方法論とヤン富田の"Pharaoh's Den" DJ KRUSHとビートの旅路トリップ
インストゆえの国際性によってオーセンティシティの問題を乗り越える。
ビートに宿るオーセンティシティ
第3章 フロウ
平板な日本語という条件/押韻という名の欲望
Keisuke Kuwataという起源/日本語ラップにとって七五調とはなにか
日本語ラップ論争/英語の会話はラップなのか
SEEDAによる日本語解体/KOHHと破調のフロウ
失われたダサさ
MVは何を映しているのか?/ヒップホップ=ヴィジュアル系
唇の功罪/ハイパー・シンクロニゼーション/ラッパーと映像による共犯
カニエ・ウエストは不死鳥の夢を見るか/ドンダという名のフッド
ラッパーにとって映えとはなにか
少しだけ未来を見通すビート/反復するのは人間か、機械か? トラップ:ノリと低音の革命/パラメータ化するビートと署名
第6章 日本語ラップ
日本語という条件/複数形のグローバル・ヒップホップ「ス」
二〇一〇年代のUSラップ/DJ KRUSHとJinmenusagiの化学反応
『KUUGA』の唯一無二性/舐達麻流エモラップ/鬼と妖怪とラッパーたち
アメリカの影の外へ/日本語ラップという名のワイルド・スタイル
あとがき
参考文献