#1 リズム/ノリ/ノる|nozakimugai
#1 リズム/ノリ/ノる|nozakimugai
1-1 リズム——かたち/ 流れ/ 繰り返し
どこにでもあるリズム
すべてがリズムである、というバリー・ハリス
リズムの意味は一つであるが、コンテキストは無数であるという藤田隆則
リズムのかたち
クラーゲス: 「拍子は反復し、リズムは更新する」
リズム・生命/拍子・理性
分節的持続性としてのリズム
切れ目のないパターンの中に類似性があるということ。
こういう話聞くとフーリエ変換思い出す。フーリエ級数をフーリエ変換に一般化するときって確か周期を無限大の波として扱う、みたいな操作あった気がする。
かたち/流れ/繰り返し
ソヴァネ
ある現象がリズム的であるというための条件
構造(structure)
ソヴァネのいう「構造(S)」とは、拍子・音の持続・音色・音高などによって構成される、一種の「かたち」だという。簡単に言えば、「複数の要素が一つのかたちを作っていること」。
ゲシュタルト
周期性(périodicité)
「周期性(P)」は繰り返しのサイクルを意味している。周期性は構造という「理性的なもの」と、運動という「非理性的なもの」のあいだに位置していて、「かたちと流れのあいだをつないでいる」。繰り返しのなかで、「かたち」を「流れ」が書き換える。書き換えが繰り返されていく。
運動(mouvement)
構造を変化させる動き。ミクロなチェンジング・セイム。
音価はそのままで音高が変わる、みたいなこと。そのバリエーション。
クラーベスと比べると、拍子の扱いに違いがある。
ソヴァネは拍子も構造の一要素として考える。
この条件に当てはまらないものってあるんか?という気もしてきた。すべてをリズム的に見ることは条件があっても「できてしまう」気がする。
仮定義
リズム:かたち(構造)を流れ(運動)が変形しながら繰り返すこと(周期性)。
拍子:リズムを分節する点。
1-2 ノる——ノらせる/ノらされる
「ノること」はままならない
https://assets.st-note.com/img/1744016605-jcXYQ2IqPE0Kf3uAlDkUFixr.png
Fig.1:「 ノリ」および関連用語の表記(1983 ~ 1987)動詞(小川、p.147)
ノる、という言葉は可能態で使われている。
これおもろすぎる。そうだわ。
100%意図した通りにノること、ノらせることは不可能。
これらから読み取れるのは、ノるという行為は、わたしたちが能動的にコントロールしきれるものではないということだ——少なくとも、完全には。ノることには、受動性、制御できなさ、ままならなさがつきまとう。
「ノらない」ことは許されない
「ノラないなんて許せん!」という怒り。
完全にノることは一人では不可能である。
ノリたかったのにノれないことがある。ノるつもりがなかったのにノらされてしまうことがある。全体性を目指す「ノリ」が、受動的な条件によって阻まれる。「ノること」は、全体性への欲求と、それを阻む受動性という相反する二つの力による緊張のなかで、実現したり、実現せずにしらけてしまったりすることがわかる。
シラケる/分裂する
ノレない、の先のシラケ
個々のアクターの「ノリ」が同期しないこと、支配的なノリに同期できないことがシラケ。
アクターはミクロには一人のうちでも複数である。頭ではノリたいのに身体がノらないということがあり得る。
その葛藤を解消するためにわたしがとった行動は、「拍を数える」「足踏みをする」ことだった。これらは一見能動的な行為に見えるが、やはり一定の受動性を含んでいる。「ノる」ことが純粋に能動的な行為なら、「ノろう」と思った時点でわたしはノっているはずだ。しかし実際には、わたしはノろうと努力しつつそれに失敗しているし、ノろうとする過程で「拍を数える」「足踏みをする」といった、間接的なアプローチに頼らざるを得ない。
こうした間接的な動作は、「ノる努力」というよりもむしろ、「自分自身を『ノらせる』努力」と呼ぶ方が正しいかもしれない。わたしがわたしをノらせること。この時、わたしの身体は、「ノらせる側」と「ノらされる側」へと二重化する。「ノらせる側」は拍をカウントしたり足踏みをして自分自身をノせようとするが、「ノらされる側」は音源版のグルーヴ感にこだわり、それを拒む。
ノらせる/ノらされる身体
その時、新しいノリに対して能動的に「ノる」身体と、それを拒絶し、古いノリに受動的に閉じこもり続けようとする「ノらされる」身体への二重化が起こる。ノらせる身体/ノらされる身体の対立。それは能動性と受動性の対立でもある。
ノることが全体性を志向するのは、二つに分裂し、不安定になった身体を一つに戻したいという、安定化への欲求が生じるからだと考えることができる。しらけた観客のことが許せないのは、単にその人とわたしの「ノリが合わない」からではなく、しらけた観客が視界に入ることで、わたしがシラケそうになるからだ。つまりわたし自身の身体に二重化が起こり、全体性が脅かされてしまうのだ。
サイファーとは異なり、言葉を交わす相手がいない状況の中でラップを盛り上げられるかどうかは、「俺が俺自身をどれだけ盛り上げるか」にかかっている。この言葉には「ノらせる(盛り上げる)身体」と、それによって「ノらされる(盛り上げられる)身体」の二重性が滲んでいる。そしてこれはラップが「盛り上がる」=ノッてくるときに経るプロセスであることが示唆されている。
いいはなしすぎる
直接には操作できない身体をどこまで加速させられるか、外のリズムを操作することが触れられない身体にフィードバックして「俺自身」を盛り上げる
最終的に「ノる」ことがうまくいくのは、「ノらされる身体」がうまく「ノらされた」時であり、ノれるかノれないかは受動的な「ノらされる身体」の状態にかかっている。つまり「ノる」という行為の能動性は、「ノらされる」という受動的な状態を実現するための手段なのだ。受動性への能動性。
ある身体/する身体
山崎正和『リズムの哲学ノート』
このように人の生涯という単位を基準にして考えると、身体をかたちづくるリズムは明快に二つに分けられ、それに応じて身体そのものも二種類に区別される。時間的にも空間的にも、人の生涯よりも大きな振幅を持ち、生命史全体のなかから個人の生涯を切り出してくるリズムが一つ、それよりも小さな振幅を持って、個人の生涯の内部で日常生活を支配するリズムがもう一つである。いうまでもなくそこで大きなリズムが生み出すのが「ある身体」であり、小さなリズムが乗せて運ぶのが「する身体」にほかならない。
する身体の能動性は完全ではなく、「させられる身体」といえる。
「ノろう」という課題が発生するときは、身体が新たなノリに触れたとき。「ノらせる身体」はリズムに巻き込まれる身体。
状態と過程
山崎によれば、「ある身体」と「する身体」の交代は完全に自動的で、個人がそれを選ぶことはできない(山崎、p.83)。わたしたちはただ切り替わりを待つしかない。これはまた、「ある身体」と「する身体」は両立することはできず、またその中間形態・グレーゾーンも存在しないということだ。
「ノらせる身体」と「ノらされる身体」は同時に存在する。そもそも「異なるノリが衝突することで二重化した身体」なのだから、両者が同時に存在しなければならないのは当然だ。ストーリー2の「わたし」は、ノろうとする能動的な身体と、しらけてしまった受動的な身体を同時に抱え、その摩擦に戸惑っているのだから。しかもわたしは両者をある程度使い分けている。これは「ある/する身体」の交代が自動的・受動的なのとは対照的だ。「拍を数える」「足踏みをする」とき、わたしは「ノらされる身体」のシラケを感じつつ、「ノらせる身体」を動かしている。わたしは二つの身体を左右の目で同時に見るようにして、両者からの感覚的なフィードバックを得ている。
ある身体→(する身体)→ある身体
状態から状態へ移行するプロセスとしてのする身体、能動的な受動性。