精神論型メリトクラシー
私の理解では、日本社会の全体的な雰囲気は「精神論型メリトクラシー」である。メリトクラシー<実力社会、成果主義>は本来(機会としての)不平等をなくすための概念であり、「努力したり結果を出した人間はそれ相応の報いを受けて然るべきだ」という発想に根ざしている。しかし、このシステムが各国で導入され、実情が判明するにつれ、メリトクラシーはむしろ批判的な文脈で参照される言葉に変容していった。なぜなら、実力・成果主義的なシステムが内包する「努力した者、成果を上げた者は報われる」という前提はやがて逆流し、「不遇な者・報われなかった者は努力しなかったはずなのである」というふうに不平等をむしろ正当化する方向に働いたからだ。この風潮が結果的に「弱者や淘汰された者は自らの怠慢の報いを受けただけである」という自己責任論的な切り離しを加速し、露呈されるべき不満や欠陥を抑圧し、福祉や互助の考え方が衰退していく、というのがメリトクラシー的なシステムが不可避的に抱える問題だといえる。 こういった「もはや破滅に向かっていると知っていながらなお/失敗した以前の手段に拘泥せざるを得なくなる」状態を、他にもコンコルド効果、サンクコスト、大企業病などといった言葉で説明できるが、いずれにせよそこには非常時に「正しいであろう認識」よりも「正しかったら都合のよい認識」に縋ろうとする人間の精神的な脆弱性が介在している。 この混乱によって、マスクを買うために一か所に集まる人たち、朝礼で社員を集めて「コロナに負けずに頑張りましょう」とくだまいたり、従業員にマスク着用を禁じたり、「我々が働いていることによって危機下の社会を支えている」というヒロイズムに耽溺しはじめた企業、休日に外出を自粛して平日には満員電車で通勤する都市という「死にたいのか死にたくないのか分からない」集団の光景が散見されることになった。この矛盾は「努力は唯一の死への対案である」というコードに埋め込まれたバグが露呈している状態だといえる。
この文章の中で語られる「努力する」「頑張る」は、思考停止とともにある感じなんだろうか。ぼくが日常的に使う「がんばる」という表現はもうちょっと「工夫する」「頭を使う」というニュアンスを含んでいる感じがするな。