等身大でいることの難しさ
週刊少年オオワダという週次で配信しているメールがあって、この中に「今週の音楽」というセクションがある。 極めて私的な内容を綴る週刊メールにて、ぼくがその週に楽しんでいた音楽の話をしている。これを書くのはなかなか楽しいし、これを書くようになってから音楽への意識の向け方が変わったので、それも含めて楽しんでいる。
ところで、毎週これを書いていて感じている難しさがある。その気はなくとも、ついつい「音楽ライターのような」「まるで音楽に詳しい人のような」そういうトーンの文章が生成されてしまいそうになるのだ。ぼくは音楽のことはぜんぜんわからないので、ただただ「この曲が好きでね」「この曲がよかったよ」「このアーティストを知ったのさ」くらいのことを自分用のメモとして書きたいはずなのに、妙な引力がはたらいていて、どこかで読んだことのあるような雰囲気の文が出そうになる。おもしろいけど、ちょっと怖い。
この現象はなんなのだろう、と考えてみた。
ひとつには「自尊心」の類がありそうだ。かっこいい文章を書いてみたい気持ちはある。できることならね、なにかしらの分野で、その分野の人たちに一目置かれるような、かっこいい文章を生み出す書き手になりたいとは思う。でも、少なくともぼくが音楽の領域でそれをやろうとしても背伸びのしすぎで足が攣ってしまうだろう。
「学習データの影響」ってのもあるかもしれない。ぼくがこれまでに読んできた音楽にまつわる文章ってのは、その多くが音楽ライターによって書かれたビシッとしたものだ。ティーンの頃には音楽雑誌を買って数万字にも及ぶようなインタビュー記事を読んでいたし、最近でも音楽ナタリーなどなどのカルチャーメディアにアクセスすれば、音楽のことが大好きでとっても詳しい人たちによるビシッとした解説記事が並んでいる。そういったものを読んで育ってここまできたので、音楽についてなにかを書こうとすると、これまでのインプットの影響を受けた文字列を生成してしまうのではないか。
ここまで、自分の書くものについて「生成される」といった受動的な書き方をしてきたが、これはあながち言い過ぎでもない。ためしに適当なアーティストを思い浮かべて、その紹介文を書こうとしてみてほしい。どこかで見聞きしたようなフレーズが自分の脳から出てこないだろうか。
これは本当に、生成 AI の一種である GitHub Copilot を使っているときの体験に近い。生成 AI を使っていなくとも、自分が自分で書いていると思っているような文章だって、どこまで「自分で書いているか」は自明ではない。 https://gyazo.com/f77a6305835f7cdbbbce54b2101c215e
ぼくらが音楽に関して読んできた文章の多くは、音楽に詳しい人が書いたものだ。
ぼくらが料理に関して読んできた文章の多くは、料理に詳しい人が書いたものだ。
ぼくらがソフトウェアに関して読んできた文章の多くは、ソフトウェアに詳しい人が書いたものだ。
バズらせることに成功した投稿ほど、ぼくらの視界に入る可能性が高くなっている。
自分がインプットしてきた文章をベースに文章を書こうとすると、自分より練度の高い人の作法を表層的に真似るようなことになる。ついつい、背伸びしたような文章を生成しそうになってしまう。ソーシャル・メディア時代に育った世代の人たちは、インプレッションを稼ぐことに特化した表現を無意識に身に着けつつあるのかもしれない。
あらためて「わたしメッセージ」の重要性に気付かされる。主語を一人称にして、自分を大きくかっこよく見せたくなる欲求と理性的に付き合っていきたい。その訓練のための場所として、ウェブ日記は有用だと思う。 関連しそう