神の見えざる手
この時はけっきょく、オプティマルなアプローチを捨てて、ヒューリスティックなアプローチを採用することを提案しました。その提案とは、芝生を敷き、四つの建物を建てたあとで一年ほどそのままにしておくというものです。すると何が起こるか。そう、人の移動パターンに応じて芝生が少しずつはがれていきますから、芝生がたくさんはがれたところは人の交通量が多いルートだと判断して、その部分だけ歩道を敷設すればいい、と提案したわけです。
主体的に最適解を求めるための技術である論理思考が猛威を振るう現代において、「何が正解かはよくわからない、成り行きに決めてもらおう」と考えるのは、思考の放棄ではないかと思われるかも知れません。経営管理に携わるという立場であれば、徹頭徹尾自分の頭で考えるという態度を、美徳と考えこそすれ、愚行と考える人はいないはずです。しかし、全ての最適解を自分で導出できる、と考えるのは知的傲慢と言えます。
モノゴトの関連性がますます複雑になり、かつ変化のダイナミクスが強まっている現在のような社会においては、理知的なトップダウン思考によって最適な解に到達することができると考えるのは知的傲慢を通り越して滑稽ですらあります。最適な解をオプティマルなアプローチによっていたずらに求めようとせず、「満足できる解」をヒューリスティックによって求めるという柔軟性も求められているのではないでしょうか。