特権とは、気にしないでいられること
@marikakonosu: 特権って社会的地位とか経済力とか多数派であるとかじゃない。「気にしなくていられる」こと。だから誰かが何かに対してとても不安に思ったり恐れたり苦痛を感じている時、「気にしすぎ」と相手をジャッジするんじゃなくて、自分の側に「気にしないでいられる特権がある」と思いたいし思ってほしい そんなことないよ
気にしすぎだよ
なんとかなるよ
そう言えるのも同じ。気にしないでいられる、選べる、避けられる、転んでもその下に安全ネットがあることを知ってる、あなたにとっての当たり前は誰かにとってはちっとも当たり前じゃない、特権。
以下、出口真紀子さん関連の記事からの引用を並べる。 私の定義は、アメリカのいわゆる社会公正教育(social justice education)の文脈での“特権”(privilege)で、「マジョリティー側の属性を持っていることで、労なくして得ることができる優位性」というものです。
自分の努力ではなく、たまたまマジョリティー性を持った側に属していることで、下駄を履かされていることはないでしょうかという視点です。
一つには、マイノリティーの言葉を信じる、ということがあります。特権に無自覚なマジョリティーは、マイノリティーの発言を軽視しています。例えば、「大げさに言っている」「文句ばかり言っている」「偏っている」というように。でも、バイアスがかかっているのは、むしろマジョリティー側です。特権に自覚的になることでマイノリティーの言葉がより説得力を持つようになることがわかります。これまで「ノイズ」に過ぎなかったものが、「こういうことだったのか」という気付きになります。
日本では間違った発言をしたら、一生許されないという社会の雰囲気があります。間違った発言をした人を追い詰めるだけの社会は危険です。思ったことを自由に発言して、間違ったら撤回して学び直し、周りもそれを許す社会こそが健全です。日本社会にある強い同調圧力への抵抗もセットで、特権に無自覚なマジョリティーへの教育に取り組む必要があると感じています。
エピソードからだけではなく、マジョリティの特権を擬似的に体験できる方法も出口さんは紹介した。教室などで行えるアクティビティで、用意するのは「ゴミ箱」と1人1枚の「紙」。それぞれの座席から、丸めた紙を前のゴミ箱に向かって投げてもらい、入った人は「社会階層を上がることができる」と仮定する。
出口さんが監訳した『真のダイバーシティをめざして―特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育―』(上智大学出版)によると、『アライ』(Ally)とは、「特権集団の人々の中で、自らの意志で被抑圧集団の人々の権利を支持する、あるいは社会的公正を求めて立ち上がることを選択する人々」を指す。
「これでは何も言えなくなってしまう」「あれもこれもマイクロアグレッションだと、すごく気を遣ってしまう」 という人には、このように申し上げます。今まで気を遣わずに済んできたことこそが、マジョリティの特権です。そうやって私たちは、マイノリティに「耐えること」を長い間、強いてきたのです。だからこそ、マイノリティから「やめてほしい」と言われていることを、わたしたちマジョリティが尊重することができてこそ、真の多様性を実現するための第一歩だと思います。
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自分は下駄を履かせてもらっていたというか、多くの特権を持ってここまで生きてきたんだなあ。ようやく 30 代も後半に入ったころから、そう認知するようになった。もちろん人生の要所要所で「がんばった」と思える自分の努力もあるのだけれど、自分と同じだけの努力をしても、自分と同じだけの能力を有していたとしても、同じような結果を得られないようなハンディキャップを負わされてしまっている人たちがたしかに存在する。
自分のような立場の人間が「なにもしない」というのは「中立」ではなくて受動的に格差を固定することに加担してしまうことになるのだ、ということをよく考えて行動を選んでいきたいなあ。