書籍『庭の話』の読書メモ
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ハイライトにコメントを添えていく
「キーウの幽霊」の事例は今日における情報の操作が恐ろしいほど低コストでかつ高ベネフィットな戦術であることを、そして情報の発信はそれが事実を伝えることではなく、人びとの欲望に応えることにおいて威力を発揮することを私たちに教えてくれる。
イギリスのジャーナリスト(デイヴィッド・グッドハート) は述べる。世界はいま「Anywhere」な人びとと「Somewhere」な人びとに二分されていると。
これは書籍全体に関わる大事な分類だったな
いま、出現しつつあるのは言わば人びとが社会を物語としてではなくゲームとして把握する世界だ。古いたとえを用いれば、かつての近代人は世界と自己との関係を「政治と文学(物語)」としてとらえていた。しかし今日を生きる現代人はそれを「市場とゲーム」としてとらえている。
自己の発信が、他の誰かになんらかのかたちで承認されること。それはその一瞬で忘れ去られる小さな承認だが、圧倒的に低コストで手に入るために人びとはまるで、口の寂しさをキャンディで慰めるようにそれを反復して求め、そして中毒に陥る。
まあこれは、近年の 𝕏 についてさんざん言われているような話 そして、下位のゲーム(相互評価のゲーム、主に民主主義) の設計者を兼ねたメタプレイヤーたち(Anywhereな人びと) はこのゲームを中毒的に反復するゾンビのようなプレイヤーたち(Somewhereな人びと) を動員して収益を上げることで上位の市場のゲーム(金融資本主義) をプレイしているのだ。
そしてここで留意したいのがこのようにSomewhereな人びとを中毒にして換金するプラットフォームの運営者たち=Anywhereな人びともまた、皮肉にも同じ構造の罠に陥っていることだ。なぜならばSomewhereな人びとのプレイする二十一世紀の〈グレート・ゲーム〉とは、Anywhereな人びとのプレイする金融資本主義という上位のゲームのデッドコピーにほかならないからだ。
今日においてタイムラインに流れてくる情報の内容そのものが吟味されることはもはや難しく、ほとんどのプレイヤーは他のプレイヤーたちの反応を見て、より多くの評価が得られるリアクションを選択する。ここではもはや情報の内容ではなく、タイムラインの潮目だけが読まれている。
タイムラインは流れが早くて、身を置いていると自分の言動が潮に飲まれる感触はあるなあ
かつて吉本隆明は、人間が社会を認識する上で機能する三つの幻想を提唱した。それは自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人などに対する一対一の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)の三つで、これらは互いに独立して存在し、反発する(逆立する)とされる。
具体的にはプロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想である。
二十一世紀の今日、吉本の三幻想はSNSというかたちで相互補完的に機能して、より強固に人類を関係の絶対性に縛り付け、相互評価のゲームのネットワークのなかに閉じこめているのだ。
言い換えれば、SNSのプラットフォームとは情報技術を用いて人間間の社会関係「のみ」を抽出する装置だと考えてよい。人間間の関係のみを肥大させた結果としてプラットフォーム上の人間の言動は「人とかかわること」に特化し、とくに承認の交換以外の欲望が喚起されなくなっているのだ。こうして、情報技術は人間を関係の絶対性の檻に閉じこめたのだ。
「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない。「家庭」という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ。家という関係の絶対性の外部がその暮らしの場に設けられていることが、人間には必要なのではないか。
「家庭」という言葉に「庭」が含まれている、ってのはぜんぜん気付いていなくてアハ〜となった 対してプラットフォームはどうか。そこには、人間間の、それも情報技術によって画一化された貧しい身体を用いた相互評価のゲームが実質的に単一で渦巻いているだけだ。このように考えたとき、「プラットフォーム」と「庭」の差は、その生態系が閉じているか、開いているかの差であると考えることもできる。
Web2.0のつくる未来を楽観的にとらえすぎていた私たちの最大のあやまちのひとつは、人間の意識的な選択は(「他者の欲望を欲望する」ために)そもそも多様なものにはならないことを見落としていたことだ。
ちょっと耳が痛い感じがしました
英語で「庭」を指す言葉のうち、「yard」や「garden」は外庭を指す(yardは芝生の整えられた開けた空間を、gardenは草花が植えられた場所を指す)。これらの、外庭たちが象徴的にその家屋の持主や建築家の考える世界観を表現していたのに対して、内庭を指す「court」は、家事や生業、あるいは宗教的な行為に用いられていた。
このように考えたとき、Web2.0の、より正確にはSNSのプラットフォームの普及によって、サイバースペースは他のあらゆる実空間よりも圧倒的に、私的(プライベート) なものと、公的(パブリック) なものとの結節点として機能している。プラットフォームにアカウントを取得するだけで、私たちはその場所に「かかわる」ことができる。アップロードされた文章を読み、動画を見るだけではなく、みずから投稿することができる。そして、アカウントが投稿したものは公的(パブリック) に公開される。そこでおこなわれている議論に一石を投じて参加することができる。数回クリックするだけで、物品を購入するだけではなく、販売することもできる。そうすることでその場所の性質を、ほんのわずかだけれども決定することができる。ここには小さいかもしれないが、確実に世界に素手で触れているときの「手触り」がある。
「自分は世界に影響を与えることができている」って手触りは大事だけれど、現代の労働や政治を通してその手触りを得るのはむつかしいよね、それが簡単に手に入るプラットフォームがあったら夢中になっちゃうよね、ってな話だったはず 第一にまず、「庭」とは人間が人間外の事物とのコミュニケーションを取るための場であり、第二に「庭」はその人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を構築している場所でなくてはいけない。そして第三に、人間がその生態系に関与できること/しかし、完全に支配することはできない場所である必要がある。
舞台となるのは、東京都の小金井にある就労継続支援B型事業所「ムジナの庭」だ。なぜ「庭」なのか。詳細は後述するがその理由は単純だ。主宰する鞍田愛希子が、かつて庭師(正確には植木屋)だったからだ。
そこで鞍田は、精神医療と福祉の領域が言語的なアプローチに偏りすぎている、と考えるようになる。頭の問題に対し、頭へのアプローチで解決を試みるのではなく、身体を通じたアプローチを併用していくべきではないか──それが、植木屋から医療アロマテラピーを経て福祉にたどり着いた鞍田の問題意識だった。こうして、構想されたのが「ムジナの庭」だ。
そこには結果として、ある種の「わかりづらさ」が発生する。しかし、この「わかりづらさ」を引き受けることこそが重要だと鞍田は述べる。そのわかりづらさによって確保される、ばらばらのまま人びとがつながっている状態──それを、鞍田は夫である鞍田崇の議論を援用しつつ、ある言葉で説明する。それが、精神科医ジャン・ウリの提唱する「コレクティフ(collectif)」という概念だ。
ウリの提唱する「コレクティフ」とは、「構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながらしかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態」のことをさす。
「オープン・ダイアローグ」や「当事者研究」がそうであるように、「個々人が、自分の独自性を保ちながらしかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態」を重視する姿勢は、近年福祉の世界で共通して顕著になりつつある。それらの中であえてウリのコレクティフに共感する理由は、どこまでも「日常的なこととして」取り組まれた点にある。
かつて近代化に奔走する当時の国家がなかばでっち上げるように制度化した「美術」と、工業化が市場に吐き出す「製品」との間に、職人たちの手仕事を「民藝」として再発見する──この百年前の運動は、なかば近代国家の成立とともに整備された官製の「美術」という制度に対するカウンターカルチャーであり、運動それ自体の役割はすでに終わったものなのではないか。私のこの不躾な質問に対し鞍田はその認識をなかば認め、しかし民藝のもつ精神性は現代にこそ必要とされているのではないか、と答えた。
鞍田は百年前の柳宗悦らによる民藝運動を、「生の哲学」の潮流のひとつとして位置づける。「生の哲学」とは、十九世紀から二十世紀初頭に見られた近代批判の潮流で、合理化や工業化が人間の物質的な生活を豊かにする反面、その精神生活を貧しくしたと考え、その失われたものを取り戻す哲学の動向とされる。
この作用について考える上で補助線となるのが、井庭崇の論考である。井庭はパターン・ランゲージの研究者として知られるが、二〇二一年私の主宰する雑誌に鞍田の考察を援用しながら、民藝とパターン・ランゲージを架橋する論考を発表している。
どうでもいいけど、井庭さんも「庭」ですね
井庭は柳の「無心の美」という概念に注目する。
そして井庭はここにも柳と、アレグザンダーの共通点を発見する。井庭がここで注目するのはアレグザンダーの「無名の質(quality without a name)」という概念だ。
井庭は柳の「無心の美」とアレグザンダーの「無名の質」を同じものと見なす。井庭によれば、柳とアレグザンダーはその「無心の美」=「無名の質」が発揮される場を、日常の暮らしの場に位置づけていたことにも共通点を見出している。
一方で、井庭は創造技術が人間の創造性を、それもその人間を選ばずに発揮するという、かつてのインターネットの夢を(Web2.0のころの夢を) あきらめていない。そのための知恵を、民藝とパターン・ランゲージを接続することで得ようとしているのだ。
井庭崇さん、そんな夢を追っていたのか…! ぼくとしては胸熱だわ この主張を國分は現代の製造業の商品の頻繁なモデルチェンジを例に説明する。自動車メーカーはモデルチェンジを定期的におこない、買い換えることを消費者にうながす。消費者はこのとき事物そのものの与える利便性や快楽──必要な輸送能力を得ること、快適に走ること、好みの外観を手に入れること──ではなく、ニューモデルという観念やブランドという記号に強く動機づけられる。この観念的なもの、記号を求める行為を國分は「消費」と位置づける。そしてこの観念的なもの、記号を対象とする「消費」には終わりがない。この例で述べれば次から次へと市場に投入される新しい「モデル」の購入を反復しつづけることでしか人間は「消費」の欲望を追求することはできず、けっして「満足」に至ることはない。これが「退屈」と呼ばれる状態にほかならない。
では、このとき二十一世紀のグレート・ゲームのプレイヤー──匿名で中傷を反復するプラットフォーム上のユーザー──たちは、『ビリー・バッド』の登場人物たちと比べたとき、「自由」な状態に近いのだろうか、それとも「強制」された状態に近いのだろうか。残念ながら、そして恐るべきことに圧倒的に「自由」に近づいている──それが私の結論だ。
プラットフォーム上で匿名で中傷を繰り返している人々は、それをやる以前よりは自由を感じているのではないか、というなかなか厳しい指摘
でも「そうかもしれないね」とは思った
だとすると、答えは明白である。「庭」には共同体があってはいけない、のだ。
この提案にはおそらく、大きな反発があるだろう。なぜならば今日においてグローバル資本主義の展開に対して、批判的な態度を取るということは多かれ少なかれ共同体への回帰を志向することを意味しているからだ。
このあたりのお話がいちばんおもしろかったかも
ポスト資本主義を考えるときにコミュニティに希望を求める気持ちは自分にもある、それに「ちがうよ」と言われたような気分になっておもしろかった そして第二の理由は(こちらがより重要なのだが)、社会的な包摂を考える上で行きつけの商店の店主と親しくなるような社交的な性格の人間のモデルを考えることにほとんど意味はないと思われることだ。実際に少年期の私も近い感性を抱いていたと思うのだが、いま孤独に苦しむ人びとの多くがこの例を聞いて強く、他人事だと感じるだろう。常連になった商店やカフェで店主や他の客と仲よくなれるようなコミュニケーションのスキルがないからこそ、彼ら/彼女らは「孤独」なのだ。
要するに、この種のロマンチックに既存の資本主義の「外部」として提示される「贈与」の経済の情報技術によるアップデートがもたらすのは結局「人間関係」をその共同体内で築いていないと必要なものが手に入らない不自由な社会なのだ。
答えはすでに明らかだ。たとえその人がどこの誰で、過去に何があろうと百円を商店にもっていけば百円の醬油が買える社会こそが「正義」なのだ。
「醤油がないときにお隣さんに助けてもらえる」のはいいとして「お隣さんに助けてもらえるような共同体の一員でいなきゃいけない」となるときついよね、って話
メンバーシップを直接的に操作する「敵」の設定は、もっともコストパフォーマンスのよい「文脈」の生成をうながす方法なのだ。人間関係の好悪という単純化されたゲームにはあらゆる人間が参加できる。たとえばある問題が共同体内に発生したとき、具体的な解決策をシミュレーションするためにはある程度高い知力が求められるが、共同体内の友敵に二分された人間関係を理解するのにそれほどの知力は必要ない。それは、卑しささえあれば誰でも成果を上げることのできるゲームなのだ。
いやあ、本当になあ
かつてのバ先にやたら派閥の話をしたがる先輩がいたことを思い出した、ぼくはずっと「別に誰派でもないッスね〜」と適当に流していたっけなあ 主観的な感情をさす「孤独」と、社会的な状態をさす「孤立」は異なる概念だが、この両者は常にセットで語られる。
封建的な家族の食卓や、「残すことを許さない」といったイデオロギーのもとに児童の管理の手段として用いられる学校給食が「食」という体験を、とくに子どもたちにとって恐怖の体験にしてしまう──そういった痛みを知らない、もしくは若いころに経験したその痛みをビニールハウスのなかでとっくに忘れてしまった文化人や研究者や社会起業家が「孤食」を批判するとき、私は強い失望を感じる。孤食によってはじめて救われる人間が存在することを、この人たちは想像もできないのだ。
「孤食 = 悪」にするなよ、という強い気持ちを感じた インターネットは、つい十年か十五年ほど前まで、他のユーザーというよりはむしろ事物と触れあうためのものだったはずだ。
しかしコモンズの共同体による自治を選べない以上、イーロン・マスクのプラットフォームに対抗できる「庭」を「つくる」ほかない──それが、本書の結論だ。そこが「庭」と呼ばれるのは、私的な場所がなかば公的に開かれたものだからだ。このような理由から本書は「そこ」を「庭」と呼んできたのだ。私たち人類はみずから欲望してプラットフォームの奴隷になっている。おそらく、これからもなりつづける。だからこそ、私たちは「庭」をこの世界に可能なかぎり多く備えていくしかないのだ。
銭湯という場所は、自己を「肯定」するのではなく「受容」する場所になっているのではないでしょうか。
「別に人情あふれるコミュニティってわけじゃないよ、なんとなく顔を見たことがある他人がすれ違っていく場所」ってな話だったはず
ただ田中の手がける「喫茶ランドリー」と他のランドリーカフェとの違いは、田中がみずからの手がける店舗を都市部の「公共的な」場所として意図して企画、運営していることだろう。田中は二〇一八年に私のインタビューに答えてこう述べている。「喫茶ランドリーという名前のとおり、喫茶店でありつつ洗濯機とかミシンがある、ちょっと複合施設的なところなんです。個人的に公民館とか公園とか「公」がつくものをやってみたいという夢があって」と。なぜ、洗濯機やミシンがあることが「公共」につながるのか。
田中は別のインタビューに答え「ランドリーがあるなしに関わらず、お客さんが一人の消費者になるのではなく、この空間を道具のように、自分のもののように使いにくるという状況を作りたかったんです」と述べる。
「うっすら自分のものである場所」を目指している感じかな、塩梅がおもしろい気がする
これらの場所では別に住民同士が協力して入浴するのでもなければ、洗濯するわけでもない。ただ、互いに邪魔しないようにそこにいる。それも高い意識をもち、タウンミーティングのためにそこにいるのではなく、単に「便利だから」そこにいる。「しなければいけないこと」のためにそこにいること。そこで生活の営みのなかで、折りあいをつけて共存していかないといけない他者の存在を体感する。そこに価値があるのだ。
私たちが目にしている「社会の分断」とは、より正確には共同体の氾濫なのだ。
このようにSNSのプラットフォームは個人をベースにした、他者間のコミュニケーションが成立する都市的な場所(交通空間) を、その圧倒的に速い文脈生成力で消滅させている。これをどう回復するかが問題なのだ。回復すべきは「共同体」ではない。むしろ対幻想や共同幻想から切り離された「個人」なのだ。そして個人が個人としての時間を与える「交通空間」なのだ。
ぼくはなんとなく「社会の分断が進んでいる気がする」と認識してきたけれど、共同体の氾濫と捉えるとまた見え方が変わってくるな、おもしろ視点 丸山の理解に照らし合わせれば、このような文化の残る社会は「近代的」な社会ではない。近代の市民社会は「する」ことを「評価」されることで、社会の一員であることが確認される。近年の労働論に照らしあわせれば、前者(である) はメンバーシップ型で、後者(する) はジョブ型ということになるだろう。
おそらくここに、「庭」の満たすべき究極の条件がある。それは「である」ことでも「する」ことでもなく、自己と無関係に世界が変化することだ。
誤解すべきではない。柴沼はアグリゲーターであれ、とアジテーションを試みているのではない。アグリゲーターのいる新しい組織を、働く場所のかたちを提案しているのだ。その実現によって、「六割」の、どちらかと言えば「Somewhere」な人びとが、意識を高くもって強く「自立」するのではなく、むしろ多方面の社会関係にかかわり社会的、経済的にリスクヘッジしながら弱く「自立」していくモデルが柴沼の提案だ。そのために鍵となるのが、従来の株式会社をその内部からなかば解体し、再編する「アグリゲーター」なのだ。
ここで補助線になるのが文化人類学者の小川さやかの議論だ。『チョンキンマンションのボスは知っている』などの著作で紹介される小川の研究ではタンザニアの出稼ぎ商人たちのネットワークがたびたび取り上げられる。
彼らは商習慣として、ものの「ついで」に知りあった人びとを可能な範囲で援助する。援助された側はその借りを返すこともあれば、返さないこともある。しかし、ネットワーク内の商習慣として、余力のあるメンバーが他のメンバーを可能な範囲で援助するという「習慣」が、セーフティーネットとして機能する。小川はこれを「「ついで」の論理」と名づける。
ここでの取引は特定の誰かを信用するのではなく、自分たちの共同体の与える信頼によって支えられている。ただしこの共同体のメンバーならば「信用」できる、とは彼らは考えない。そうではなく、ふだんのプラットフォーム上の振る舞い(文章や動画の投稿など) から、この程度の利益のために騙すことはないだろう、という判断材料が文脈の共有によって与えられる。その結果として発生する(こともある)「信頼」が、取引を可能にしているのだ。
ほんとうに批判力のあるモデルは、これまで考えてきたようにむしろ資本主義と都市の内部にある。そこで獲得すべきものは「家」ではなく「庭」であり、そこで人びとが集うのはグループではなくコレクティフであり、共同体ではなく社会であり、自治のためのアソシエーションではなく、アグリゲーターを内在した新しい株式会社とプラットフォームのハックといったものが実現する、資本主義のプレイヤーとしての「弱い自立」なのだ。
家ではなく庭、グループではなくコレクティフ、共同体ではなく社会、アソシエーションではなく株式会社とプラットフォームのハック
ではどうすれば人間は「制作」を通じて公共性に接続できるのか。ここでの目的は、自己が「何者かになる」こともないままその活動が世界を少しでも、しかし確実に変えていることを実感することだ。そして事物を「制作」するとき人間は一時的に共同体からの「承認」や市場からの「評価」から解放される。
アーレントは『人間の条件』において、人間の基本的な活動を三つのカテゴリーに分類した。それが労働(Labor)、制作(Work)、そして行為(Action) だ。
結論から述べてしまえばここで私たちが考えるべきはむしろ、「制作の行為化」なのだ。
ここで注目するべきは、「永遠の β 版」という概念だ。これは、製品やソフトウェアが絶えず進化しつづけ、けっして「完成」しない状態を指す。このアプローチは、オープンソースに限らず、ソフトウェア開発プロジェクト全般に見られるものだが、この考えは明らかにアーレントが指摘する「制作」が固定された目的に縛られるという問題から脱却している。アーレントによれば、制作活動はあらかじめ定められた目的(完成された製品や作品) に向かって進むものであり、そのプロセスは目的によって制約される。しかし、「永遠の β 版」的なアプローチでは、製品やプロジェクトに「完成」という終点が存在しないため、開発は開かれたプロセスとなるのだ。
急に、ぼくにとっては身近な話が出てきた
Web 2.0 が流行ったころにはよく言われていたけれど、最近はわざわざこれを言うようなシーンもなくなってきたね 四半世紀前にシリコンバレーではじまった運動は、政治的ではなく経済的なアプローチで、ローカルな国家ではなくグローバルな市場を通して世界を変える可能性を示した。そして、その成果はオープンソースの代表する「制作の行為化」によって、アーレントの批判を乗り越え、人びとに世界に素手で触れることを可能にした。問題は、その過程で新しい階級が生み出され、世界の大半の人にその門が閉ざされてしまったことだ。
かつて「職業社会学」を確立した尾高邦雄は「職業の三要素」を主張した。これは職業を形成する要素を「生計の維持」「個性の発揮」「役割の実現」に分類したものだ。
この「弱い自立」によってそれが「自分の」仕事になること。「弱い自立」を経ることで、人間がより自由に「労働」にアプローチできるようになること。これによってはじめて「労働」のなかに「制作」の快楽を見つけうる環境を整備できるのだ。そして「弱い自立」を経由して「制作」することが「自分の仕事」として認識されたとき、人間はそこで生みだされた事物に自分の世界への関与を発見しやすくなる。