想定最小合意範囲
コミュニケーションを行う二者がいるとき、この二者間で「これはオッケー」と認識が揃っている領域をここでは「合意範囲」と呼ぶ。このとき「これはオッケーかどうか怪しいな…」は合意が取れていないものとして扱って、合意の確度が高いと感じられる領域だけを残したものを「想定最小合意範囲」と呼んでみよう。
自分は、この想定最小合意範囲を足場としてそこでコミュニケーションを展開し、この領域の外に踏み出していくときにはかなり慎重なスタンスを取る。たとえば「こういう話が苦手だったら教えてくださいね」と枕詞を置いてから話し始めたりする。
自分はそう、と書いたけれど、大半の人間が多かれ少なかれこういうモデルでふるまっているのではないかと思う。
この想定最小合意範囲を見誤ると、ケンカが起きたり、ハラスメントになってしまったり、とにかく悲しいトラブルにつながってしまうのではないか。そう感じるので、想定最小合意範囲という概念をトラブルの回避に役立てられないか模索したい。
以下、自分の模索の足跡。
世間話において「天候」の話が重宝されるのは、これが大きなトラブルになることはほぼないと知られているからだろう 安牌として天候の話から始めて、そこから徐々に合意の輪郭を探っていくアプローチ 合意というのは、そのコミュニケーションの参加者間で成立させるものである、と自分は考える 自分とは別の考えとして「合意ってのは社会全体で形成されるもの」派がいると思う 「常識的に考えて、初対面で◯◯の話をするのはナシでしょ」的な、社会的合意を常識と呼んだりもする 社会全体でひとつの正解がある、と捉えた方が認知コストが低くて楽だから魅力はあるよね
でも 99% の人はイヤじゃなくても目の前の人がイヤなことなら「合意がない」とするのが現実にマッチすると思う
同質性の高い集団の中にばかり身を置いていると、想定最小合意範囲を見定める精度が上がらない 相手によってオッケーの範囲は異なるということに考えが至らずに、誰に対しても「いつものノリ」を繰り出してしまい、合意のない領域に踏み込んで相手にダメージを与えてしまう事象が起きる 相手を「ノリが悪い」と罵るのは、自分(たち)の合意範囲にお前が合わせてこいよ、という傲慢な態度だと思う
ぼくが思うコミュニケーションのうまい人は、どんな相手とも心地よい合意の範囲を見つけられる人
とくに三者以上が関わるコミュニケーションにおいては、合意を確認できていない領域の話をするのは本当に慎重になった方がいい
実践的な話。
基本的に、想定される最小の合意範囲からスタートするのが吉
相手が明示的にオッケーと言っていないものはすべてオッケーじゃないと思っておくのでちょうどいい
いろんな立場の人と接して、ときには失敗も経験して、とやっていくと想定最小合意範囲の見定めが少しずつうまくなる
世の中のトラブルの事例を眺めていると「合意の見定めがむつかしいトピック」がわかってくる
日記を書くなどしてパブリックに自己開示をやっておくと「自分、ここはオッケーです」と合意の範囲を示せるので、お互いに合意範囲の確認が楽になる