怒り貨幣経済
私は、習慣として怒っている人たちの間には、ある種の共通的な文化があると感じている。この記事では、そのことを紹介してみたいと思う。
気づいた当初、私はこの文化に自分なりの名前をつけた。その名前は「怒り貨幣経済」である。
結婚してから自覚するようになったこととして「自分には "怒る" という行動習慣がなさそう」というものがある。人生において一度も怒りを感じたことがない、ってわけじゃないんだけど、少なくとも「なるべく怒りとは無縁で暮らしたい」「怒らずに済むならそうしたい」と思ってはいるだろう。 そんなわけで、よっぽどのことがないと怒らない日々を生きてきたので、そもそも「怒り」や「怒る」という行為について真剣に考えたこともなく、ぼくにとって一連の考察は新鮮でおもしろいものだった。
私が思う「怒り貨幣経済」の特徴は次のようになる。
習慣として怒っている人たちは、自分の怒りも他人の怒りも非常に気になる。怒りは基本的に着目すべき現象、解決されるべき問題だと考えている。
誰かが怒っていることはある種の「チャレンジ(挑戦)」である。怒りに “正当性” があると認められれば怒った人の勝利。認められなければ怒った人の敗北。怒った人は、怒りを向けた相手から勝利の対価として謝罪・償いを得ることができる。
私が貨幣経済という比喩を思いついたのは、このようにチャレンジして対価を得ようとする様子が一種の取引であって、「怒り」や「謝罪」を貨幣のように相互にやりとりすることで様々な不満や衝突を解決するアプローチであるからだ。このやりとりには、独特の節度があって、一種の洗練された共通的な手続き(プロトコル)がある。