常識といったとき、何割くらいの人と共有できていると捉えるか
常識という言葉はいろんな場面で広く使われるが、その実、解釈にもけっこうな幅があって、常識という言葉の意味自体が常識と呼べるほどの共通認識を形成するに至っていないのではないか、と感じる。 ためしに macOS の辞書アプリで調べてみると、下記のように説明されている。 ある社会で,人々の間に広く承認され,当然もっているはずの知識や判断力。「―では考えられない奇行」「―に欠ける」
「広く承認され」「当然もっている」と書かれていて、やはりここにも曖昧さは残っているようだ。「全人類が確実に知っていること」のように言い切られるものではない。
逆説的ではあるが、常識という言葉を持ち出さねばならないこと自体が、ある集団全体に完全に浸透した知識が存在しないことを示唆しているのではないか。真に完全浸透した知識というものが存在し、誰もそれを疑うことがなければ、「これは常識です」「こんなの常識ですよね?」といった会話はなされないはずだ。「常識クイズ」「常識問題」が成立するのは、不正解になる人がいるとわかっているからだ。
ぼくは「ある集団において、だいたい 8 〜 9 割くらいの人に通じるもの」というニュアンスで常識を捉えていそうだ。「多くの人が知っていること」であり「知らない人もいるであろうこと」を、ときに常識というラベルをつけて扱っている。
だからか、その知識を有していない人に減点を与えるためにふりかざされる「常識」が嫌いだ。排他的な態度には共感しない。だいたい 8 〜 9 割くらいには通じるが、1 〜 2 割くらい通じないかもしれない、そういう前提のもとで活用されるのが、ぼくの好きなタイプの「常識」である。