実年齢とは別に感じる「若」「老」の話
ポッドキャストでは、ふだん自分と接点のないような人々の雑談を聴ける。自分から見て年上の人たち、同年代の人たち、年下の人たちの会話を楽しく聴かせてもらっている。 そこで気付いたのは、実年齢とは別に会話の内容からぼくが感じ取る「若」や「老」の成分があるということだ。
年上の人が話していても、新しい考えの取り入れや認識の更新を多く含む会話には「若」を感じる
これに気付いてから、自分の中で「若」や「老」がどういった概念の近くにあるのかを整理してみたくなった。試しにやってみると、こんな整理になるだろうか。
table:若と老
「若」 「老」
可能性が開かれている 可能性が閉じている
やわらかい かたい
変化にポジティブ 変化にネガティブ
動 静
これを書いている 2022-06-03 時点でぼくは 38 歳で、でっちあげの例として男性 20 歳と女性 60 歳に登場してもらう。 男性 20 歳が「男たるもの、こうじゃなきゃダメじゃないですか!」と言っていたら会話に「老」成分を感じる
女性 60 歳が「新しいことを始めようと思って、ダンスを始めたよ」と言っていたら会話に「若」成分を感じる
こんなところだろうか。
思い返してみると、自分は 22 から 26 歳くらいの頃が、もっとも偏見や先入観やバイアスにまみれていたような気がする。24 歳までずっと北海道にいて、教育を受ける立場で、家族や友人といった割と近い価値観の人々を中心に交流していたので、どうしても視野が狭かった。現代の日本に生まれて義務教育を受けて高等教育も受けて成人を迎える頃には、平均的な人間であれば、しっかりと偏見や差別を叩き込まれて大人になるように思う。少なくとも、1983 年生まれの日本人であるぼくはそうなったと認識している。 自分の内に存在する偏見や先入観の類を認識するには、とにかく知識や教養を獲得していくしかないと思う。ぼくの場合は、本を読んだり、話を聞かせてもらったり、他者との関わりの中で失敗をやらかして後悔したりして、いくつかの偏見・先入観については根っこをつかまえて認識をあらためることができた。これからもひとつずつ発見してやっていくしかないと捉えている。 人間としてまっさらな状態で生まれて、人格形成期を過ごした環境によってあれこれを植え付けられて、大人になってからは自分の意思で自分の認識を整えていく。人生とはそのように進行していくのかもしれない。
ところで、先に例示した男性 20 歳の発言はその瞬間においては「老」を感じるのだけれど、一方で 20 歳という状況であれば、その後の数年でまるっきり認知が変わっていく期待があるわけで、瞬間的な「老」と長期的な「若」の成分が同居しているようにも感じている。
とても頑なな態度を取る人を見て「この人は、この先もずっとこうなんだろうなあ」と強く感じてしまうときに、純度の高い「老」を見るのである。自分はもうすぐ 40 歳という現在位置で、できる限りはやわらかい態度でいたいし、変化をポジティブに受け止めたいし、自分の可能性を信じ続けていたい。加齢とともにこういった考えも変わっていくのだろうか。60 歳のぼくがこの文章を読んだら、どんなふうに思うのだろうか。