ケアの対象としての「子」という概念
雑談系のポッドキャスト番組が好きで、よく聴いている。友だちとふたりで雑談しています、ってのをファミレスの隣のテーブルで聴かせてもらうような体験が好みだ。 女性同士が話している番組があれば、男性同士が話している番組もある。ぼくが見聞きする範囲では、女性同士は収録の前後にもたくさん雑談している、って話をよく聞く。逆に男性同士は、収録に使うネタがなくならないように収録以外では話さないようにしている、という話をちょいちょい聞く。
最近、もしかして男女で差があるかも…?と思ったのが「子」という言葉の持ち出し方だ。ぼくと同年代の男性で友人に対して「子」というラベルを持ち出す人は見かけないが、同年代の女性たちは「仲のいい子といっしょに旅行に行って〜」のように「子」という表現を使う。ぼくの観測範囲においては差があるように感じていて、この差はどこからくるのだろうと興味を持った。
まずは、ぼくが「子」という概念を持ち出すシチュエーションを考えてみる。まずは「友人のお子さん」がわかりやすい。友人のお子さんのことは、友人を経由することで「子」と呼べる。続いて、小学校でのボランディア活動で接する児童たち。 ただ、小学生たちを「子」と呼んでいいものか迷いがあって、なるべく客観的事実に沿った表現をしたいと思ってこうした文章の中では「児童」と書くことが多い。小学生を「子」と呼ぶとしたとき、じゃあ中学生は、高校生は、大学生は、自分の関わる現場に入ってきた新卒入社の人は、と順に考えていくと、どこからどこまでを「子」とするかは決して明確ではないと気付く。自分の中で明確な「子というのは◯◯歳まで」の定義を持てずにいて、気軽には扱えない概念になってしまった。
会社員時代、あるときまでは「新卒の子」「インターンシップの子」といった呼び方をしていたが、上記のようなことを考えるようになってからは「新卒入社の人」「インターンシップのみなさん」等に寄っていった。とうに成人しているみなさんに対して「子」というのはマッチしていない感じがしたからだ。
こうして整理してみると、まずは続柄としての「子」があるとわかる。もし自分が「親」になるような親子関係の相手がいたのなら、その相手を「子」と呼ぶことにはしっくりきそうだ。明確な概念としての「親子」の「子」の部分。 続いて、年齢によって定義される「何歳から何歳までの人間」という意味での「子」という概念も、自分の認識の中に存在していると言える。
ところで、たとえば 40 歳の女性が同級生が友人を指して「仲のいい子」というときの「子」は、上記ふたつのどちらにもあてはまらないように感じた。続柄としての「子」でないことは明白だし、どうだろう、年齢定義による「子」は 40 歳を含まないケースが多いのではなかろうか。 女性同士のコミュニケーションと比べて、男性同士のコミュニケーションにおいては「労り合う」成分が少ないんじゃないかと、そういう話。
https://open.spotify.com/episode/3mCebOhBBkMTsnn0Rq8JK5
もしかして「子」というのは、続柄や年齢で規定されるものの他に「労り合う相手」「ケアする相手」的なニュアンスで指し示されるものもあるのではないか。弱みを見せ合い、身を寄せ合い、労り合う関係。あるいは「わたしはあなたをケアするつもりがありますよ」という矢印を向ける間柄。そういう「子」があるのかもしれない。 「ケアする対象」が「子」だとすれば、実子はもちろんあてはまるし、先に書いた「インターンシップの子」も、そこまで悪くない呼び方に思えてくる。
ぼくは昭和の日本に生まれた人間として、年長者は敬うべきとする考え方や、部活動における「先輩・後輩」のような縦の関係に多く触れてきた。人間関係の中に「上下」を無意識に組み込んでいるのかもしれない。そのような人間にとっては「子」と言ってしまうと「下」みたいなニュアンスを感じてしまって抵抗があるのかもしれない。
他方、そういった上下関係とは無縁で育ってきた人からすると、上とか下とかじゃなくて「ケアする」「ケアしあう」という関係性の型があるから、同年代の相手に対しても抵抗なく「子」というラベルが出てくるのかも。