よくある構文を使って投稿を組み立てること
ウェブ上で誰かが視界に入ってくるとき。典型的には SNS 上で自分のことをフォローしてくれる人が現れたときね。他には、ニュースレターを購読してくれる人がいたときとか。
どんな人なんじゃろ、と思ってその人の直近の投稿を眺めてみたときに、
他者の投稿のリポストばかりが並んでいる
よく見かけるような構文によって生成された文字列ばかりが並んでいる のケースにおいて、自分は「ふーむ…?」と不思議な感覚を抱きがちだと気がついた。おそらく、自分が「どんな人なんじゃろ」と思って眺めにいくときにはその人の「人となり」を知りたいと思っていて、それが満たされないから「ふーむ…?」となってしまうのだと思う。たぶん。
もちろん、上述のようなケースにおいても「人となり」は表出しているとは思うのだけれど、ぼくが知りたいのはそれじゃないんだろう。別のページで「借り物の表現」というフレーズを用いたことがあった。知りたいのは「自前の表現」なんだろう。 ぼくの期待が現実とズレるのは 𝕏 において顕著だと思うな。Tumblr の Reblog に夢中になっていたころはこんなことは感じなかったのに、2023 年の 𝕏 でリポストばかりが並んでいると「借り物だ〜」と感じるのはなんでなんだろう。 その場を「各位が各位を表現する場所」と捉えているか、それとは別の「帰属する場所」と捉えているか、の違いってのはあるかもしれない。
「構文を使いまくるスタイル」は、ある種のコードとして機能していそう。ドレスコードとかのコード、つまり規範だ。「わたしはこのコードに則って投稿していますよ」は、集団への帰属意識を示すのに有用っぽいよな。この場合は「自分の表現」を使うよりも「みんなの表現」を使う方が目的にマッチする。