ずっと応援し続けます、とはならない
なにかを応援する者としてのスタンスを整理しておく 2025 の続きみたいな成分のある話。
好きになって応援しているミュージシャンがいたとして「ずっと応援し続けます」と思ったことはないな、と気付いた。社会を歩いていて「一生、推します」「ずっとついていきます」な言説がけっこう存在すると知ったが、自分にはそういうのめり込み方はなくて、ほんの少し寂しく感じたりもする。
たとえば 2025-04-16 時点ではぼくは BMSG という会社とその所属アーティストたちのことを応援しているけれど、これが命が終わるまで続く気持ちかというと、けっこう怪しい気がする。なにしろ、妻に対してさえ「一生の愛」は誓っていないわけで、すんごいイヤなことをされたら気持ちがどう変化するかはわからんよ、と妻にも言ってある。だから「一生の愛」的なものにあぐらをかかずに、お互いがこの関係に水やりを続けなきゃね、それがせめてもの誠意だと考えているよ、ということ。妻を相手にも誓えない長さのものを、それ以外の相手に維持できるとは思えないのだった。
BMSG に関していえば、スタートアップという性質上、2020 年代においてはその役目を全うしてもらうのがグッドなことだと思っている。ただ、これが 2040 年を迎えるころには、そのときに組織が存続しているとしたら、既得権益側に立っている可能性が高いと捉えている。そうであったとき、その時代にはその時代の新興プレイヤーが登場していて、新陳代謝を進めてくれることを期待している。今のところの想定では 60 歳くらいになった自分は、やはりそのときの新しいプレイヤーの方を応援しているんじゃないかと思う。
これは Google を見てきた体験があるからそう思うのかも。ぼくが大学生のとき、Google は既存のデカいものをブチ壊してくれる革命児だったわけだけれど、今ではデカい存在の側だもんね。
ゴールデンボンバーのことは、かれこれ 15 年間以上は好きで応援を続けている。これからも応援したい対象であり続けたらうれしいな。
あと、党派性と呼ばれる類の性質に対して警戒心がある。「この人が言っているから」「この組織のやることだから」という理由で評価を固定してしまうのは怖い。妻であれ妹であれ弟であれ母であれ父であれ、自分にとって大事な人であっても、いや、大事な人だからこそ、変なことを言っていたら「それはおかしくない?」と指摘できる立場でありたい。
「なにがあってもぜったいに味方」ってのは頼もしく感じられるものかもしれないけれど、批評的な観点を持たないイエス・パーソンだらけになっちゃうと、破滅を促すことにもなりかねない。そういう関わり方はうれしくないんだよな。ぼくは、他者に対して「なにがあっても、ずっと」な約束をしたことがないと思うし、これからもしなさそう。