あたりまえの根っこ「差別と社会」
長いスパンでみれば、過去から現在、未来と、人権のとらえ方は大きく進展しており、今の時代に生きる人が、差別だととらえていないことも、20年、30年後には、差別だととらえられることが起こるでしょう。その点、頭を柔軟にし、感性を磨いておかないと、次世代の人から、「古い、頭が固い」といわれるでしょう。
自分も歳を重ねるほどにそういうことが増えていくのだろう、と思って怖くなる気持ちがある。ジジイになったら、大声でなにかを言わないようになっていきそう。
さて、差別とは、「(1)個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、(2)合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、(3)異なった(不利益な)取扱いをすること」と定義できます。
定義を示すところから始めてもらえると安心する。
ですから、マイノリティの主張の認められ方は、時代によって変わります。社会によって違いがみられます。考え方は、社会情勢によっても揺れています。しかし、差別のとらえ方に意見の一致がみられないからといって、「人権は難しい」と放り出してしまっては、面白さを逃してしまいます。意見の食い違いの中に、「人権の豊かさ」があります。
異なった取扱いも合理的だと考えて「納得がいく」とみるのか、「納得がいかない」とみるのか、さまざまな意見の食い違いの中に、人権感覚を豊かにするヒントが隠されています。皆が同じ意見だったら、人権を深く考えるきっかけをなくします。意見の違いの背景には、それぞれどんな見方をしているのかが浮かび上がってきます。自分がどのような価値観を大事にしているのか、気づくようになります。
社会規範というのは、人々の行動に指針をあたえる価値基準や行動の基準であり、それに同調した考えには褒美があたえられ、それに反する行動をとった者には罰があたえられます。褒美や罰といっても、母親の満足そうな表情、困った顔つきのような微妙なものから、刑罰といったはっきりと目に見えるものまで、有形無形、強弱、さまざまなレベルのものがあります。このような社会的報酬をともなうことによって、人々は社会規範を学習し内面化していき、その結果、社会の秩序が保たれます。
これは「社会」をすべて「組織」に置換しても成り立つ文じゃのう。
社会規範との関係でみると、差別は3つのタイプにわけられます。
第1は合法的「差別」、第2は社会的差別、第3は個人的差別です。合法的「差別」というのは、「差別」をすることが社会規範によって広範な人々に支持されているものです。これは、そもそも正しい行為とみなされているのですから、その社会では「差別」とは認識されていません。このタイプのものを合法的「差別」と呼んでおきましょう。
アルベール・メンミは、「人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者(引用者注:人種差別主義者)が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである」と指摘しました※1。メンミの人種差別のとらえ方の特徴は、単なる慣習ではなくて、自己の集団の利益を図るためのものだという点と、もう1つ、マジョリティとマイノリティとの間に存する差異は、現実のものであっても、あるいは架空のものであってもどちらでもいいのであって、差別することの後ろめたさを解消するために、自分たちとは「決定的な違い」があるのだと強調することだと指摘している点にあります。
「人の世の中であるかぎり、差別はなくならない」と考える人がいますが、このレベルの個人的差別を考えているのであれば、たしかにいつまでもなくならないでしょう。しかし、社会的差別はなくすことができます。
いい整理だと思った。差別を 3 種に分類して整理しているから、こういった解像度の高い主張ができるのだなあ。
わたしたちは差別をめぐる価値観や思想の闘争のまっただ中にいるのです。そこでは中立の立場や傍観者の立場をとることは、本来的にはできないでしよう。わたしたち一人ひとりの意思表示が、社会規範や集団規範のありかたを左右しているのです。
ドキッとしますね。自分がたまたま居合せた場で行われた、差別か差別じゃないかグレーゾーンに位置するようなふるまいに対して、自分がどんな反応を取るのか。これが規範をつくる材料になってしまう、と。能動的差別はしない人でも、受動的に差別に加担してしまうことはありえるという話だと思います。
だから差別意識を身につけている人は、パーソナリティに何か問題がある人ではなく、その文化の価値観や規範を忠実に身につけた模範的な人であるということになります。
つまり、差別意識を個人の特性で考えると、差別するのは一部の「異常な人」という見方になりますが、差別意識を文化に組み込まれたものと考えると、差別するのは、その文化を従順に身につけた「優等生」という見方になります。人数も少数ではなく、多数の人々になります。
このように考えると、本人が自覚しているか、していないかに関わりなく、差別行動・制度を正当化する意識の流れを差別意識と定義することができます。それは文化に組み込まれたコードです。
https://gyazo.com/94dc42ded47210cce8e7d82389241595
これに対して、タイプ2やタイプ3は、意識と行動が一致していないものです。タイプ2は、差別意識をもっていないが、差別行動をとるものです。これは「日和見型リベラル」です。よい天気のときにはリベラルですが、雲行きがあやしくなると反リベラルになります。状況によって態度を変えるタイプです。またタイプ3は差別意識をもっているが、差別行動をとらない「日和見型反リベラル」のタイプです。
意識と行動の不一致、なるほどな〜。おもしろ考察だった。どっちも自分の外に価値基準を持つタイプってことか。
従って、個人の意識を変えるのもさることながら、社会規範や集団規範の中身を変えることが重要です。差別行動を起こさせないためには、差別すれば社会的・経済的に制裁を受けるというシステムや状況をつくることが効果的であるということが分かります。差別をなくすための法や条例をつくることの意味は、ここにあります。
納得だ!