自分が誰かを攻撃するとしたら
2024-07-10 現在、自分は日常的に誰かを攻撃しなきゃいけないような状況にはなくて、争いを好まない自分としてはラッキーだな、と感じている。 じゃあ、そんな自分が誰かを攻撃しなきゃいけないような状況ってのは、どんな状況だろうか、と考えてみたい。ここでいう「攻撃」ってのは、物理的な暴力のような攻撃もそうだし、誹謗中傷のような尊厳に対する攻撃も含むつもり。他者を肉体的でも精神的でも傷つけるような行為の全般を指す。 自分が「攻撃」という手段を持ち出さずに済んでいるのは、やはり、生命や生活が脅かされていないと感じているから、だろうなあ。なにか対立があったとしてもまずは対話を試みるし、それは、見方によってはかなり悠長に思われるかもしれない。略奪にきているプレイヤーと対話するのはむつかしいから、つまり自分は略奪の危険にさらされていないってことだろう。 フィクション作品である『創世のタイガ』『自殺島』『望郷太郎』などを見ていると、隣の集落との間に「自分たちが生きていくために必要なものの取り合い」が発生してしまったら、奪われてしまったら死ぬという緊迫感が生じるであろうことは想像できる。そういう状況になれば、自分が、あるいは自分が属する集団が生き延びるために、ぼくも誰かを攻撃するのだろうと思う。 ひるがえって、ノン・フィクションである現実のわたしたち。たとえば現代の日本において。物理的な剣や斧や槍を振るうわけではないにしても、争いはいたるところで起きている。攻撃は止む気配を見せない。
誰かを攻撃している人がいるとしたら、その人は「なにか」を脅かされていると感じているのだろうか。「あいつらの言うことを認めてしまったら、自分の生活が脅かされる」「あいつらに分けてやるものなどひとつもない」「追い出せ」「耳を貸すな」「認めるな」といった態度は、防御の反応として攻撃として顕在化しているのだろうか。そう見てみると、理解できなくはないな、と思う。生命や生活に安心を感じられて、他者になにかを分け与えてもへっちゃらなくらい資源に余裕があれば、攻撃せずに済んだりするのだろうか。 ぜんぜんわかっていないので、とんちんかんなことを書いている可能性はおおいにある。
https://scrapbox.io/files/668e884e7d348b001d81a9e5.webp