自分がそれを気にすることと、それを場の「べき」にすること
「ぜんぜん◯◯できていなくて、すみません」的な発言を聞く機会がある。
職場などで、明確にそれを実行することが期待されているのなら、担当マネージャみたいな立場の人を相手にこういう発言が出てくるのはよくわかるし、これからどうしていこうか、ってのを話したらいいと思う。
とくになんの義務もないようなコミュニティのような場でも、この手の発言を見聞きする機会はある。思うに、発言者さんには「自分はこうしたい」と思い描いている像があって、それと「現状は、こう」との間にギャップがあり、気に病んでいたり気にしたりしているときに、こういう発言が飛び出してくる印象がある。
たとえばオンラインのコミュニティによって運営されている Slack や Discord のようなテキストチャットの場があったとして。そこで進行しているあれこれのプロジェクトに関わりたいと思ってはいるが、なかなか追いつけていないとき。「チャットを追えていなくてすみません」的なフレーズが出てくる。
誰かがなにかを気にしちゃうってのは個人の自由だし、気にしたいように気にすればいいとして。それを、その場にいる人々の目や耳に触れる形で発露すると「この場では◯◯するべきだ」という意見の表明として作用してしまうので、注意が必要だと思っている。「チャットを追えていなくてすみません」と書くと「この場では、チャットは追うべきだ」という主張をまとったものとして読まれ得る。
ぼくは、コミュニティのような自由参加の場において、可能な限り「◯◯すべき」を生じさせたくないと考えている。なので、誰かがなんらかの「べき」の種をまこうとするときは、その場にとって望ましくない芽が出ないように対処に当たる。「チャットは、追いたい人が追えばいいだけだと思っていますよ〜」「すべてを把握している人だけが発言できる場にはしたくないと考えていますよ〜」のように逆向きのベクトルを発生させていく。
なにか「できていないこと」を気にしている人がいて、その気持ちを和らげようとして発話した内容が、その場における「これをできていないとダメ」の雰囲気を強めてしまうのだとしたら、悲しいことだと思う。各位がそれぞれの都合に合わせて参加すればよいはずの場で、みんながみんな「全体を追えていなくてすみません」と言っている状況を想像すると胸が苦しくなる。ひとりひとりが「自分は、こう関わっていきます」と気負わずに肩の力を抜いて過ごせていたらいいな。そうなるように、場に関わっていきたい。
「できていないこと」より「できていること」に目を向けていこう。